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まえがき

(前略)
本書は司法試験を目指して法学の勉強を思い立った人や、すでにロースクールなどへの入学を果たしたが、何となく核心をつかんだ感じがしない、そして入門、初級から中、上級を目指したいが、勉強の方法論はこれでいいというところまで達していない、何とか一つ上を目指したいという人のために書かれた。
ノートのとり方はどう、答案の書き方はどうこうせよ、基本書の独習と授業の関係はどうしたらいい、といったプラグマテックな方法論にはふれていないから、そういうことを期待する向きには、あまたあふれる受験参考書を手に取られることをお薦めする。そうではなく、何なのか。
そのことにふれる前にもう一つ二つ紹介しておきたい物語がある。
一つは先ほどのゼミの続きである。
週に一度の答案練習と指導が行なわれた。毎回落第点で、講師の弁護士から「君はいつ受かりたいと思ってんの」と聞かれた。「来年合格しないと、もう家の家計がもたないので、来年受かりたいです」と言うと、弁護士は目を丸くして24歳の学生の目をのぞき込んだ(「そりゃ無理だよ」という言葉を飲み込んだのであろう)。
「それじゃあ、よほど勉強しないとね」

3カ月目、最後の答案練習の日のことであった。
今日はこの問題が出るはずだ、と思い定めて文章の流れを自転車をこぎながらお経のように唱えた。
ヤマをかける、というのとは違う何か一念のような思いであった。この日想定していた問題が出題された。
自ら不貞によって家庭を捨てた男性が、30年の別居ののち、離婚請求をしたいと考えた。この請求は裁判所で認められるか、という問題である(有責主義か破綻主義かという問い)。
流れるように回答文ができ(毎回落第点かせいぜい100分の60、B級C級の採点だったが)、初めて一応の合格点をもらった。
年齢は若かったが古武士のように笑ったときも決して歯を見せないその弁護士は、広い額を光らせながら、いっそう苦い顔をして言うのだった。
「このくらい書けて当たり前ですよ」
これは7月の出来事であった。

すでに3カ月と決めた小勉強会は終わって独学の日々のことであった。
剣道で面を打ちにいく剣士が床をトーンと蹴って相手の懐に飛び込む場面がある。相手は正眼に構えているから真正面から飛び込めば、のどに突きが入るはずなのに、この踏み込みに気合いが入っていると、竹刀は見事に面をとらえる。この踏み込みのような法的思考の飛躍が起こった。
その第一が、おなじみ民法総則の「動機の錯誤」の論点である。少なくない教科書では、取引の安全という利益と表意者の意思の尊重という対立利益の調和をはかり、動機が表示されたときにはじめて、動機の錯誤も「要素の錯誤」(民法95条)として意思表示を無効とする、と説明する。ダットサン民法も同様であった。
これだけでは初学者にはチンプンカンプンなので、事例に即して説明しよう。判例は何と100年も前の事件であるから古くさい印象もある。しかし、今をときめく作家浅田次郎(日本ペンクラブ会長)も大ファンの競馬の馬の取引と思えば、現在性を帯びるかもしれない。
ここから先、貨幣価値の変遷を見て多少のデフォルメも入ることをお許しいただきたい。
ある馬の取引業者がこれは競走馬で受胎している馬です、というセールストークで1000万円の価格で馬1頭を売りつけた。しかし馬はただの荷を引けるだけの駄馬で、せいぜい50万円位の代物であった。売買契約書には売買の目的物の欄に「馬1頭」とだけ記されていた(筆者には、この「駄馬」という言い方がなじまないが、多くの解説本はこの言葉を使うのでやむを得ずこの単語を用いる)。

この事例で思い浮かぶのは詐欺による取消(民法96条1項)の主張である。しかし、そのためには欺罔(だまし)の故意が証明できなければならない。それがかなわないときでも主張できる理屈はないのか。
買い主は、要素の錯誤(民法95条)で売買契約の無効を主張できないのか、という事例問題である。
少なからぬ解説は、動機が表示されたときの両者の利益衡量の視点から説明していた。
学生は、これが何だか納得がいかなかった。あらかじめ結論をこの辺に定めて、バランスだ、利益衡量だという説明が何だかご都合主義にみえた。
もっと論理必然的に、そのようにしか考えられないという説明はないのか。自分が用いていた我妻先生の分厚い『新訂民法講義』総則(岩波書店)を繰り返し読んだ。すると我妻先生は、動機はあくまで動機である。しかし、表示することによって、「種馬であるから1000万円で売買契約を結んだという経過に注目する。そのことが取引の場で表示されているときは、種馬としての売買になったのだ」という説明がつけられていた。
学生はここでも満足しなかった。なお本に食い下がりながら、種馬だから売り買いするのだという動機が表示されたときは、それが動機にとどまらずに意思表示の目的に、意思表示の内容に転化するのだ、と理解を深めたのである。そして、我妻先生の教科書の種馬としてという箇所に傍点をふった(この理解は後に判例の原文にあたると、さして見当違いのものでなかったようである)。

もう一つの跳躍は、憲法の科目で起こった。
宮沢俊義教授の『憲法U』の大学の自治の箇所のところである。
学問の自由はこれを保障する(憲法 条)とは、条文にはっきり書いてある。しかし、大学の自治を保障するとはどこにも書かれていない。では大学の自治を憲法で保障される価値を認めるためどのような論理操作が必要なのか。
宮沢俊義教授の『憲法U』では、「大学の自治は学問の自由、大学の自由をその当然のコロラリーとして含むことが理解される」(宮沢俊義『憲法U』有斐閣、1971年。芦部教授の基本書『憲法』5版、岩波書店、167ページにも同様のセンテンスがある)とされていた。
この叙述にも筆者は納得がいかなかった。
筆者自身の体験として、大学2年のとき文部省(現文科省)が大学の自治に干渉するため大学管理法を上程する動きがあり、教授会、教職員労働組合、大学院生自治会、学部と教養の自治会が共催で、七、八百人の学生と教授の参加で全学集会が開かれた。
都留重人、増田四郎、田上穣治、種瀬茂といった、当時の一流の文化人に列していた教授たちが壇上にならび、学長の都留重人教授が弁をふるった。院生自治会、学生自治会の代表もまったく対等に壇の上からスピーチした。壇上で見る都留教授のがっしりとした体格、わかりやすい論旨、奥行きの深い兼松講堂を埋め尽くした学生たちの光景がよみがえる。
大学の自治は、当然のコロラリーといった軽い叙述で表現されるようなものでなく、明治憲法下の滝川事件、美濃部達吉の天皇機関説事件などという歴史と痛みを背負っている概念のように思った。
大学1年のとき、東大ポポロ事件(『憲法判例百選』6版、有斐閣、 ケース、193ページ、芦部信喜『憲法』5版、岩波書店、169ページ注)で大学を追われた元学生の体験者中島武敏氏(のち国会議員)を学内に呼んで講演会を開いた体験もよみがえった。

学生は、学問がもともと持っている批判精神、時代の大勢のその先を研究によって切り開いていく先端性というところに着目した。
学問の自由は学問が持つ公権力への批判精神と時代の先端を行く自然科学、社会科学の自由を保障し、公権力の干渉を排除する自由である。ならばその学問が公権力の干渉なく行なわれるため、学問研究の行なわれる場所――大学の運営に公権力はいっさい手出しをしてはならない、よって大学の自治は憲法上保障される価値を持つのだ。というように読み込んだ。
こうして記憶の貼り付けではなく、基本書の読み込みの中でひらめきを重ねる日々を続けた。
秋、ある模擬試験を受けると、自分でも驚くほどの高順位になった。翌年7月の論文に合格。
9月の口述試験を通って最終合格となった。
論文試験まで、教科書を買い込んでから1年7カ月であった。
(中略)

二人の受験経験者の体験(一人は旧試験であるが)は何を語るか。
新司法試験では会社法、民事訴訟法、行政法を含めた各科目の膨大な知識量に、確かに1度は圧倒される。しかし、知識量をいくら積み重ねても合格への道は開けない。どこかで受験勉強ではない、法学という学問の神髄にふれる飛躍が必要なのである。
このジャンプがなければ仮に受かっても、学説と判例を貼り付けるだけの文章しか書けず、第三者の共感を獲得できる口頭弁論と尋問もできない。
人は人生に1度しかない困難を抱えて法律事務所の扉をたたく。その苦しみに共感し、一緒になって悲しみや苦しみの中から立ち上がる。そんな法律家になりたい。そして育てたい。
そのために必要な自分の頭で考える方法と志とは何なのか。
法科大学院では、教室でのやりとりだけではなく、学生と一緒にハンセン病の元患者さんが生活する多磨全生園、松本サリン事件で冤罪を晴らした河野義行さんと豪傑のような野太い声を出す永田恒治弁護士を訪ねて、長野県松本市にフィールドワークをした。靖国問題を考えるために靖国神社と遊就館という展示館も訪ねた。
東日本大震災のあった年の5月、合格して修習生になった学生を呼び出し、福島県の浜通りで津波と原発の複合被害にも触れ、郡山で、原発周辺の町や村から1800人の人々が避難生活をする現場にも接した。会津に足をのばし、福島第一原発立地の大熊町から100キロの距離を逃れてきた男性から故郷への強い思いも聞いた。
汚染地への移転に反対する築地市場移転問題では、朝五時のセリから繰り出す500台以上のターレーと呼ぶフォークリフトが、弧を描いては、取引先にかけつけ、運転する男たちの顔に朝陽があたって光り輝く、心躍る場面を見た。その胸の鼓動を法廷での弁論に反映させることもあった。

たった一点の曇りもない。ここにあるのはそのような人々の体験する不幸が取り除かれ、肩をたたき合って喜びをかわす日のために日々を尽くそうと思った、実務家の文章である。
音楽家ショパンの恩師「ポーランド国民音楽の父」 ユゼフ・エルスネルは、「自分の生徒から凌駕されなければよい教師ではない」という言葉を残した(崔善愛『ショパン―花束に隠された大砲』岩波ジュニア新書、44ページ)。
私たちの世代をのり越え、この時代閉塞を克服して進む青年よ、いでよ。
本書は心ある法学徒の魂と必ずや共鳴する。そのことを信じて本書を読者に捧げる。

岩上安身氏推薦文

目から鱗が落ちた。司法試験を受験する一握りの学生だけが、法律という「秘教」を学ぶのだと思っていた。そうではない。資格などに関係なく、リーガルマインドをもった市民のための「武器」として、法律はいつでも学びうるし、使いうるというのだ。

弁護士梓澤和幸のホームページ

 『リーガルマインド』を読んで 
     山梨学院大学法学部法学科2年 深澤伊吹己

出版ニュース 2014年6月下旬号

〈法のもつ治安維持機能と人権保障機能のせめぎあいを体の奥底で感じ取り、それを苦悩しながら我が物にするのが法学の勉強なのかもしれない〉〈問題は、ある主張をする場合の根拠づけ、論理性、そして第三者の共感を得る説得力なのだ〉 著者は71年に弁護士登録、以来多くの人権侵害をめぐる裁判に関わってきた。
 本書はベテラン弁護士の立場から、司法試験を目指す法学徒に向けて書かれた実践的メッセージ。「リーガルマインド」をいかに理解し身に着けるか、憲法の論理と判例の論理について、実践からみた刑事訴訟法理解など、経験をふまえ自分の頭で考える方法の指南は説得力に富む。

植草一秀の『知られざる真実』

 自分 の頭で考える方法と精神

週刊金曜日 2014年7月4日号(No.998)

 困難を抱えた人々に
 共感共苦する心

                          竹内一晴

 昔で言えば学生運動、今で言うとNGО活動をしている人の中に司法試験に早く合格する人々が少なくないのはなぜか―。
 キャリア40年以上のベテラン弁護士で、法科大学院では教鞭も執る著者はこう自問する。それは「リーガルマインド」(=法的思考法)と深い関連があることではないかと。
 この本は司法試験を目指す法学徒に向け、法的思考法の「核心」について、著者自身が受験生だった頃の苦悩、弁護活動経験、裁判事例に関する著者なりの思考の格闘を踏まえて書かれたものだ。硬い法律論と柔らかいエッセイ調の部分の差が激しいが、それもご愛嬌。梓澤和幸氏本人の人柄がにじみ出ている。
 共謀罪や特定秘密保護法に関しても積極的な発言をしてきた著者は、リーガルマインドの重要な要件として「敏感な時事感覚、権力の拡大と暴走、防止のための権限限定、その仕組みと論理への関心」を挙げ、それが冒頭の理由だと推測している。
 しかし、全体を通して何度も強調されるのは、困難を抱えて法律事務所の扉をたたく人々に共感共苦し、一緒になってそこから立ち上がろうとする心だ。「目前のクライアントの痛み、苦しみを深く分かち合う」ことが「あらゆる戦術や、法的手段や行動のエネルギー」の源泉になると著者は言う。
 筆者は梓澤氏と知り合って、四半世紀近くにもなる。その間、常に驚嘆させられたのは、事象の本質に対する直観力と法的論理構成における創造性だった。だが、この本を読み、もっとも卓越した才能は「共感力」だと思った。集団的自衛権も「殺される兵士と家族の立場で論ぜよ」という弁護士の生き様が現れた本でもある。
                   (フリージャーナリスト)

図書新聞 2014年8月30日号(No.3172)

 法律的な考え方はとても難解
 ベテラン弁護士が説くリーガルマインド=「法律的考え方」

                          萩原信彦

 タイトルからして、また、冒頭部分に著者の司法試験挑戦の苦労話というか、体験記が掲載されているので、法曹界を目指す人たちへの法律、訴訟(裁判)についての「入門書」のような印象を受けるがそうではない。一般の人にも法的な考え方(リーガルマインド)を身につけ、理解してもらおうと、現実の判決や法律の条文など、さまざまな実例を引いて、「法律(家)はどういう考え方をするのか」を説明した本だ。しかし、決して分かり易くはなく、法律が一般社会通念とはかなり違う価値観、論理構造を持った体系であることが分かる。また、著者はリベラル派の弁護士らしく、現在の自民党と安倍内閣の国家主義的な憲法改正、機密保護などの考え方を「基本的人権を軽視しており、世界の民主主義国家の法体系に逆行する動きだ」と厳しく批判している。
 「リーガルマインドとは何か」、「法律家という仕事」、「憲法の論理と判例の論理」、「実践からみた刑事訴訟法理解」など、五つの「講話」でリーガルマインドを説明する構成になっている。
 例えば第1話のところでは「定義とは何か」という議論(学説)の紹介がある。サッカーを法律的に定義すると「サッカー選手とは、チーム集団の一員として、一定の限られた空間において、革製のボールを、下肢だけを用いて移動させ、相手方チームの抵抗を克服して、ゴールと称する限られた空間に通過させる人を言う」という、若干冗談めかした定義を紹介している。だれでも知っていることを厳密に、しかも前後の表現に矛盾がないように記述するという法律の基本姿勢がよく現れている文章だが、日常的に使われる言語表現との「かい離」は否めない。こういう条文(定義)を駆使して争われる訴訟、裁判所の判決等が、一読して理解できるものではないことがよく分かる。
 芦部信喜氏の「憲法」では、「大学の憲法講義、制度の枠組みの解説ではなく、その制度の沿革を探り、その趣旨、目的、および機能をそれに関する諸々の見解の比較検討と対立し、または絡み合う諸々の価値、利益の比較衡量とを通じて、具体的に明らかにし、一定の結論を導き出す論理構成の能力を養うこと、を目的としている」と述べ、「多くの教科書が対立する学説を比較検討しているのはそのためだ」としている。これまた、法律家特有の「難解」な文章になっている。これを著者は、@諸説を決して記憶しないこと、Aなぜ説が分かれるか、分岐の上流まで遡ること、B自説の採用に当たっては、反対説からの批判に対して弱いところをいかにカバーするかを考えること−と受け止めている。
 このように、通念とはギャップのある「リーガルマインド」を「習得」するには、ミステリー小説を読むようにはいかず、受験勉強の時のように、この本も「眼光紙背に徹する」集中力を発揮する必要がありそうだ。
 冤罪や取調べの透明化に絡んで、刑事訴訟法で「犯罪容疑があると思われる時は、捜査機関は犯罪捜査を開始することができる」と規定し、そのひとつの手法として「任意取調べ」がある。任意取調べは、対象者の合意なしには行えないが、拒否すると逮捕に切り換えられるケースが多いことから、弁護士も「応諾」を勧めるケースが大半である。だが、任意取調べについては刑訴法に明確な定義、規定がないこともあって、理由を開示しないまま数ヶ月にも及ぶ取調べになることが多く、対象者の人権擁護、抵抗権の尊重がはとんど配慮されていない。また、任意と言っても捜査機関(警察と検察)は対象者の「クロ」(つまり容疑者)であることを最初から確信しているケースが非常に多く、「見込み捜査」と言われても仕方がないケースも珍しくない。
 これを防ぐには、「捜査プロセスの透明化」、「密室での自白重視の見直し」によって、任意取調べ段階から弁護士が反論できるプロセスを確立する必要があるが、捜査機関の強い抵抗で、ごく最近になってやっと「捜査プロセスの透明化」、具体的にはビデオ収録などが導入されつつある段階だ。
 このように、法体系は独得の厳密さを持っている。法理論に対し、安倍内閣はイデオロギッシュな立場、国家主義、ナショナリズムなどを前面に押し出して、「立憲主義」などの近代の憲法理解を押し流すような「政治主導」に司法も転換しているように見える。著者もこういう動きには「将来にわたって"法による統治"、"三権分立"を無効化してしまう危険性が極めて強い」と警告を発している。
                           (評論家)