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抜粋 《前口上》

汝、欠くることなかりしか

福田眞由美さんは、ごく普通の一小学校教師だった。彼女はつい2年半前、38年間勤めた小学校を定年退職した。定年後も契約教師として頼まれて現場で教えている。私がなぜ彼女を知っているかといえば、彼女が私の妻の姉、つまり義姉だからである。妻とは仲のよい姉妹で、私の家によく遊びにくる。そのたびに私と彼女はよく論争をした。
ジャーナリストの私は、かねてから学校、とくに教師には批判的であった。テレビでこれまで何度も学校を取材したことがあるが、事件が起こると校長や教師たちからはほとんどと言っていいほど取材を拒否される。たまたま取材に応じてくれても、知らぬ存ぜぬと木で鼻を括ったような対応。公けになるような事件を起こしておいて、あまりにも情報公開や説明責任の姿勢に欠けるのには呆れてしまう。学校の教師の姿勢がすべてそうであるとは思えないけれど、そうした体験ばかりをしていると彼らに対して好意的にはなれなくなるというものだ。
そんなわけで、私はいつも現役の教師である彼女を責め立てた。彼女が無責任な学校や教師の代表であるわけではないけれど、身近な者に対する遠慮のなさもあっていつも口調は厳しかった。
ところが、彼女も負けてはいないのだ。曰く、
「マスコミはつねにかたくなな予断を持ち、初めから批判するための取材に来る」
「冷静さがまるでない、無遠慮でデリカシーに欠ける」
「勉強せずに上っ面ばかりを見て、事件が起こった問題の深層までを取材しない」
「勝手に編集して、自分たちに都合のよいところだけを放送する」
「無責任なコメンテーターばかりに発言させる」
などなど、反論は毎回エスカレートし、論争はいつも物別れに終わってしまっていた。

かつて私はこんな体験をしたことがある。
ある地域の教師たちの集まりで講演を頼まれたときのことだ。最寄りの駅まで迎えに来てくれた初老の教師が車の中でこんなことを話してくれた。
「若い教師の中には新聞を読まない人が多くなりましてね。教師が読まないから生徒も新聞を読まなくなる。テレビの世界のあなたには申し訳ないが、活字を読まなくなると人間は考える能力が衰えてしまうのではないかと心配でならないのです」
彼は、自分の学校では若い教師の八割くらいは新聞を読まないと断言した。このことは私の学校教師に対する不信をさらに強めることになった。
そういえば若い教師と同じ世代の親たちにも本をまともに読まぬ人々が少なくない。20代から40歳までの青年経営者たちの集まりであるJC(青年会議所)のメンバーは、ちょうど小学生を子に持つ親にあたり、PTA活動にも熱心な地域のオピニオンリーダーだと言われている。過去10年以上彼らとは共同制作番組やシンポジウムのコーディネートなどでつき合ってきたが、話を聞いてみると驚くべきことに彼らも本を読まない。にもかかわらず、彼らは愛国心や憲法や教育基本法の改正問題について国にいろいろ提言している。月にまともな本1冊読まぬ人々が行なう提言とは何だろうと私はいつも腹立たしく感じていた。
JCのメンバーは真面目で誠実な青年経営者たちが多く、会社経営の数字には詳しいけれど、本を読まぬせいか歴史や芸術に対する理解はきわめて乏しい。発想が短絡的で、首相がアメリカの大統領を支持するとすぐに同調し、イラク派兵などには簡単に賛成の声明を出してしまう。学校の荒廃が叫ばれると、口をそろえて日教組を槍玉に挙げる。
元気がよいのは結構だが、耳学問ばかりで活字文化による習練があまりにも希薄だから、考えが常識的で行動には慎重さを欠く。
若い教師たちにしろ、小学生を子に持つJCのメンバーにしろ、テレビをよく見てくれるのはその世界にいる立場としてはありがたいのだけれど、活字文化をないがしろにすると、人間は想像力や洞察力を喪失してしまうように思えてならない。

そんなこともあって、福田さんと話をしたときにはこうしたエピソードを挙げて学校現場の教師たちや若い親たちを厳しく批判したのであった。福田さんもそれは憂えていたが、同時に彼女は、だからこそその流れを加速しているテレビの責任は大きいと、私に厳しく迫ったのである。
彼女が現役の頃は、会うたびに平行線の論争に明け暮れていたものだが、彼女が定年を過ぎて時間が生まれ、私も年をとってカドが取れてくるにしたがい、じっくり彼女の現役時代の話を聞くようになった。お互いに相手を難詰するのではなく、時間をかけて冷静に話し合える空気が生まれてきた。
定年後、彼女は38年間のいろいろなエピソードを私に具体的に聞かせてくれた。決して学校や教師たちだけの立場に立つ弁明の話ではなく、いま子どもたちを取り巻くさまざまな深層の危機を例を挙げて話してくれたのである。私の学校や教師に対する偏見も正してくれた。さらに、彼女がこれまで一貫してやってきた教育の中に、日本の教育現場をめぐるさまざまな問題を解く鍵があるとも思わせてくれた。それをまとめたのが本書である。

彼女は、何よりも子どもたちが好きだ。子どもが好きで好きでたまらないから、定年まで管理職になることを断り、子どもたちと接し続けた。その一方で彼女は、子どもを甘やかさず、曲がったことは許さない。
子どもに対してだけではない。校長や副校長に対しても、行政指導を担う文部官僚に対しても、さらに父母たちに対しても、自分が信じていることを明確に主張する。それは彼女がほんとうに子どもたちを愛しているからだということが彼女の話に耳を傾けているうちに伝わってきた。
2004年に起こった長崎県佐世保市の小学生の刺殺事件で、教育関係者たちは何度も議論を積み重ねながら戸惑い、いまだにその原因をつかめずにいる。だが現代社会の複合的な環境が子どもたちにさまざま深刻な事態をもたらしていることは間違いないだろう。そんな危ない状況の中で教師や親や地域はなす術もなくおろおろするばかりの状況だ。では立ち直る道はないのか。
福田さんは、「立ち直れる」と言う。彼女は、いま教師も親も真剣に子どもたちと向き合ってはいないという。どんなことにも予兆があり、それがわからないのは、子どもと真剣に向き合っていないからだと考えるのだ。だからこそ病んでいる子どもたちに大人たちは気づかない。学校を立ち直らせるには、何より大人たちが本気で子どもや教師や学校のことを知り、関わり、そのうえで抜本的な対応策を立てて、実行することが不可欠なのだ。本書は、まさに彼女の子どもたちへの真剣な関わり方の記録である。

現場の教師生活のエピソードを中心にした彼女の記録は、ジャーナリストの立場からは共感するところや付け加えたいところもあり、それを芝居風に前口上、幕間、閉幕といった形で私が記述する構成を取らせていただいた。
とはいえ、この本は1人の教師と1人のジャーナリストの体験や考えにすぎない。したがって、異論や批判があって当然だと思う。それを敢えてお断わりしたうえで、教育について論議を交わしたり、ご自身の意見をまとめられたりするにあたって、読者であるあなたにいささかのお役に立つことがあるなら望外の幸せである。

ばばこういち 

書評 出版ニュース 05年4月中旬

著者の福田眞由美は横浜の公立小学校に38年間勤めた元教師で、ばばこういちは放送番組の企画・制作・出演を行うプロデューサー・キャスターで、福田はばばの義妹にあたる。
本書の構成は、福田が自らの教育実践を紹介しながら、その間の親や学校の危機的な変化、子どもたちの置かれている環境の悪化などを語り、学校を報道する立場にあったばばが学校や教育に関する思いなどを語ったものである。なかでもすばらしいのは福田先生の「読み語り」の実践であろう。子どもたちは毎日、この読み語りを楽しみに学校に通ったほどであり、子どもたちもそこで多様な価値観を学んだようだ。そして、学校再生の手だてが述べられている。子どもたちに基礎学力と豊かな感性をつけさせること、教師は子どもたちと密着し、志をもって教育に専念することなど、至極当たり前のことであるが、やはりこれが最善の処方箋なのであろう。

書評 現代教育新聞 05年4月1日

豊かな感性を育む「読み語り」、子どもと親や教師の心をつなぐ「交換日記」。38年間、子どもたちと真剣に向き合ってきた元小学校教師が、いま子どもたちと学校を取り巻く深層の危機を率直に明かし、学校再生の手だてを考える。