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抜粋 プロローグ

イギリスの史家エリック・ホブズボームは、20世紀を「短い世紀」として、1914年の第一次大戦とともに始まり91年のソ連の崩壊とともに終わったと見ることでよく知られている。だが私は、巷間「同時多発テロ」といわれる2001年の「9.11事件」に接し、これを20世紀の終わりとして、この歴史区分を訂正しなければならない、と考えるようになった。もちろん、あの衝撃的事件とその後の事態の推移から、次にどのような時代が始まり、どのような21世紀になるかを予測するのは難しい。しかしながらそれは、世界史の旧い時代が終わり、新しい時代が始まったことを強く予感させるものだった。
そうしたなかで、これまで漠然としていたいくつかの問題が、はっきり見えてきたように思われる。しかも同時に、これまで取り組んできた私自身のグラムシ観の変化を強く意識するようになった。20世紀初めの20年余りの近代から現代への激動の時代を生きたアントニオ・グラムシと、20世紀の危機と解体のなかでその終幕を迎えたわれわれとのあいだの、時間的・空間的な「距離」についての認識である。それはまた、彼とわれわれとのあいだの時代状況の隔たりを意識しながら、彼が彼の時代を大胆に語ったように、われわれもまたわれわれの時代の多様性と差異を恐れることなくあるがままに受け入れて、これからの21世紀をどのように語ることができるか、という問いでもある。もちろんそのことは、グラムシに今日的課題への「キー」や「解答」があるなどといおうとしているのではない。
グラムシが第1次大戦を迎えたのは、トリーノ大学の3年生、23歳のときのことだった。学友たちは戦争にかりだされていき、身障者として兵役を免除されていた彼は、イタリア社会党機関紙『アヴァンティ!』のトリーノ編集部に入り本格的な政治運動に飛び込んでいった。以後、1937年4月に亡くなるまで、歴史的混沌のなかで、政治家・政治思想家としてさまざまな政治的課題と格闘した。
その課題の1つは、ロシア10月革命によって触発された「新しい秩序」としての「社会主義革命」の追究である。「ロシア革命は権力をとり替えたばかりでなく、習俗をとり替え、新しい道徳的雰囲気を創造し、肉体的自由のみならず、精神の自由をも創造した」と彼は書いた。
その後、労働運動・社会主義運動に参加してイタリア共産党の創設にかかわり、党を代表してコミンテルン(共産主義インタナショナル)執行委員としてモスクワに滞在し、党書記長として活動するなかで、ユートピア的発想から現実の社会主義観へと移っていった。そして獄中では、コミンテルンおよび党政治局多数派の路線と対立するようになるのだが、彼は生涯、「社会主義」を捨てることはなかった。しかも、「政治革命に先立って意識革命・文化革命が必要」であり、革命は「ひとつの偉大な文化的事象」であって経済的・政治的側面にかぎられるものではないという、青年時代からの発想も変わらなかった。
もう1つの課題は、第1次大戦後の政治権力の「空白」から台頭してきた「ファシズム」にたいしてである。
当時のイタリア政治家たちのあいだでは、それへの見解は左右を問わず混乱していた。ファシズムは「イタリア・ブルジョワジーの最下層の、ぐうたらで無知な冒険家たちの蜂起だ」と書いていたグラムシも、22年10月、ファシストが「ローマ進軍」によって政権を握る頃から見方を変えていった。24年8月の党中央委員会では、ファシズムの特徴を「小ブルジョワジーの大衆組織づくりに成功したことであり、そのようなことは史上初めてのことだ」と報告した。
獄中での分析はさらに進んでいった。ファシズムはブルジョワジーによるたんなる防衛的反動でも、資本主義の停滞と危機への対応でもない。自由競争市場から計画経済への部分的移行を、暴力的な社会的動乱なしに達成する「復古-革命」だとし、「革命的とはいえないが、完全な反動でもない」と考えるようになっていった。
さらにもう一つの課題は「アメリカニズム」についてである。
第1次大戦によってアメリカは債務国から債権国となり、世界体制の新たな支配者として立ち現われてきた。それを支えたのが、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」とよばれる新しい文化・生活様式と「フォーディズム」という新しい労働・生産様式で、それはヨーロッパに流入し急速に広がっていった。ところが、伝統的ヨーロッパ文化にどっぷりつかっていたヨーロッパの支配者や知識人たちは、アメリカ文化の「俗物根性」をあざ笑っていた。それにたいしてグラムシは、「歴史的・文化的伝統」をもたないアメリカはヨーロッパのような「鉛のマント」の重みに苦しめられることはないと考え、世界の経済・文化の中心がヨーロッパからアメリカに移ったことを看破していた。そして、アメリカ資本主義の大量生産・大量消費システムと、それにともなう人々の生活スタイルや道徳の革命が、遅れたヨーロッパ社会、とりわけイタリア社会に深く浸透し、それを「転換」させつつあることに深い関心をよせていた。そうした見方は、当時のヨーロッパの社会主義者たちのあいだで、稀有な存在だった。
以上のような歴史的混沌のなかで、1929年、獄中のグラムシは、「古いものが死に、新しいものが生まれていないという事実のなかに、まさに危機がある」と書いた。
それから70年以上の歳月をへた今日、彼が取り組んだ課題は大きく変容した。彼が「人間社会の新しい歴史が始まり、人間精神の歴史の新しい実験が始まる」と見た社会主義は、1980年代末から90年代初めにかけてソ連社会主義体制の崩壊として終わった。ファシズムは第2次大戦におけるドイツ、イタリア、日本の敗北によって、政治の舞台から消えたかに見えたが、戦後の社会的妥協のなかから、「中道路線」を追求するヨーロッパ政治の虚をつく形で、新しい極右勢力として登場してきており、アメリカのブッシュ政権に重要な庇護者を見いだしている。さらに「アメリカニズム」は、グローバリゼーションおよび湾岸戦争以降のアメリカの経済・軍事行動とのかかわりで、その終焉が語られなくてはならなくなっている。
そうしたなかでいま、われわれの前には、いくつかの新たな課題が出現している。
その1つは、冷戦体制崩壊後のソ連社会主義体制の崩壊とほとんど時を同じくして見られるようになった西側体制の方向感覚の喪失状態に、いかに対応するかという課題である。
1992年のクリントン米大統領の選出は、妥協的変化のきっかけだった。それまで、命脈が尽きかけていたかに見えていた社会民主主義勢力が活気を取りもどし、96年から98年にかけて、ヨーロッパのほとんどの主要国で中道左派政権を形成することになったのである。伝統的な右翼と左翼の断絶を超えた「第3の道」を、マスメディアや評論家は、「社会民主主義の現代版」と宣伝し、「ヨーロッパ社会民主主義の全盛期」とか「中道左派の時代の到来」とはやしたてた。
だがその「路線」は5年間も続かず、「社会民主主義的妥協」という回答は実際の情勢に適応していなかっただけでなく、ヨーロッパ左翼および同労働運動の支持政党を重大な危機にさらすこととなった。革新的「中間層」という新しい社会的責任者の獲得指向から、やはりその獲得をめざす右派勢力と「中道」路線を競うこととなり、双方が相手側の理念や政策を取り入れることによって接近し、 「右」とか「左」といった従来の旗印は、もはや何の意味も持たなくなっていったからである。その結果、有権者の政治離れを引き起こし、ほとんどの選挙で、投票率の著しい低下をもたらした。それは「投票」という「民主主義確認のセレモニー」、すなわち有権者の意思決定という政治制度が機能しなくなっていることを意味した。20世紀の政治文化そのもの危機である。最近のヨーロッパ各地における極右勢力の進出は、こうした政治の「真空状況」と不可分な関係にあり、21世紀の政治をバラ色に描くことはもはやできなくなっている。
もう一つは、20世紀の最後の10年間を特徴づけた経済のグローバル化(世界化)の問題である。
グローバリゼーションは何世紀も通じた歴史的現象だった。古くはヨーロッパは科学と技術を中国から、そして数学をインドやアラブから受け入れていた。それと同様、グローバル化という現象は、世界的な歴史過程における不可逆的な相互作用の継続であり、科学的・文化的面でも経済の面でも地球を豊かにしてきた。
ところが20世紀末に欧米から発信されたグローバル市場経済原理による経済のグローバル化は、アメリカに富を集中させ、世界中の貧富の差を広げた。世界はかつてないほど豊かになっていながら、同時に極度の貧困と窮乏が存在するという驚くべき不平等の場になっており、限られた特権的な人々が享受している経済的・社会的チャンスから、貧しい人々はまったく排除されている。しかも現存する国際的な政治・金融・経済の諸制度のほとんどは、こうした世界情勢には適応しなくなっている。最近、世界各地で見られる反グローバリゼーションの大衆的運動が問うているのは、まさにこの問題である。こうして400年以上続いた資本主義システムは危機に瀕している。
さらにもう1つの課題は、情報革命の問題であり、それはたんなる技術革命ではなく、真の文化・社会革命として現われている。
20世紀後半の社会は「科学・技術化」され、それが20世紀初頭の社会と異なる点は、かつて夢や空想の領域に属していたことを可能にするテクノロジーが日常的な現実として普及し、人々の生活を支えているところにある。巨大な情報網のもと、世界中のニュースや情報が映像と音声で絶え間なく流され複製されて、社会的・文化的な諸活動を媒介するようになっている。そこでは、強力なコミュニケーション手段であるマスメディアが、公的舞台の主役として機能しており、「社会」や 「文化」の現われ方は以前とは大きく変わり、自己や他者にたいする感覚まで変容させている。
多様な情報メディアによる大量の情報の移動・複製・流通を可能にする社会や文化において、従来のような人と人との伝統的な地縁・血縁的な関係は崩れ、新たな情報縁的諸関係が広がっている。そこでは、1世紀にわたる産業化・都市化のなかで形成されてきた「地域共同体」は変質・解体し、近隣の人や場所が必ずしも身近でなく、逆に空間的に離れた人や場所がより近い存在と感じられるようにさえなっている。
情報テクノロジーの発達によって時間・空間の障壁が取り除かれ、「社会」は見知らぬ人々からなる巨大な群衆として、しかも複雑で抽象的な回路のような相貌のもとに現われている。こうしてわれわれは、豊富な情報と多様な関係のネットワークの広がりのもとで、「いま・ここ」という実感をもちにくい社会・文化を生きている。異質な他者排除の傾向や、自己中心的な自他感覚が助長されるのも、こうしたなかにおいてである。
しかしながら、情報化が進むことによって世界的な共通性が生まれ、自分とは違う価値観をもった他者が見えてきた。つまり異質な他者によって、見えなかったものが見えるようになってきたのである。それは、民族や宗教の違いを超えた多様な文化を認めあう思想をつくりだし、他者との新しい関係を見つけだすような知的共同作業を探り、新しい時代にふさわしい人類共通の「知」のシステムを考えることを可能にする条件である。先に見たように、グラムシは70年前に、「古いものが死に、新しいものがまだ生まれていないという事実のなかに、まさに危機が存在する」と書いた。今日、グラムシの時代とは状況が大きく異なるが、ここに、今日のわれわれの新しい課題と可能性を探ることができる。

本書は、グラムシとの時間的・空間的距離を念頭におき、グラムシ思想に拠りながら、まず1章で「ポスト・アメリカニズム」に焦点をあて、その他の章で、21世紀がどのような方向にむかおうとしているのか、しかもそこに、われわれにとってどのような可能性があるのかを多面的・立体的に探ろうとするものである。本書の標題を、『ポスト・アメリカニズムとグラムシ』としたのは、そうした意味においてである。

書評 出版ニュース 03年1月

ファシズムに向かうイタリアで社会主義革命を追求したアントニオ・グラムシ。その思想を軸にして今日の「ポスト・アメリカニズム」を解読しようという試み。1929年、獄中のグラムシは「古いものが死に、新しいものが生まれていないという事実のなかに、まさに危機がある」と書いたが、その後、ソ連社会主義の崩壊や西側体制の方向感覚の喪失など、当時の課題は大きく変容した。
著者は、「ポスト・アメリカニズム」の時代を、植民地問題」の矛盾と「サバルタン」(都市における新たな底辺層)の反逆の始まりと捉え、ヘゲモニーの危機や知識人の役割を説く。グラムシ研究者によるグラムシ思想の再検証とその可能性。

書評 図書新聞 03年3月8日

グラムシの〈アメリカニズム〉を重要なモチーフとして
9.11以後の現在、その今日的意義を提示

グラムシといえば、かつては、わが国の左翼潮流のなかで構造改革派として位置付けられた思想家だ。ひとくちに、構造改革派といってもなかなか定義づけは難しい。硬直した、非現実的な革命戦略しか想起できなかった日本共産党に対して、現実的にそしてゆるやかな理念を提起していこうとしたと捉えてみてもいいし、あるいは、マルクス主義の亜流、結局は改良主義の枠をでるものではなかったという皮相な思想として見られていたといってもいい。確かに構造改革派の学生組織は、明確に反日共系として70年前後のいわゆる新左翼運動(全共闘運動)を担っていたが、それでもなお、わたし(たち)は彼らに対し捉えにくさというものを感じていたといってもいい。
グラムシは1921年、イタリア共産党の創設に参加し、その後、コミンテルンの執行委員に就任、そして24年、33歳で共産党書記長になる。ムッソリーニ政権時の26年に逮捕、以後、獄中生活を送り37年に46歳で病死する。グラムシの主要著作は、「獄中ノート」としてのものであり、その限りでは体系だった著作活動があったわけではなかった。
時代や情況の違いはあっても、わたしたちがどういう視線を保持すべきかということは、もっとも重要なことだ。本書の著者は長年にわたってグラムシを研究してきたなかで、独自の視線というものを絶えず手放さなかったグラムシを、今日的な情況から見直してみようと試みている。
本書の書名に付され、第1章で詳細に論じられているグラムシの〈アメリカニズム〉論がここでは、重要なモチーフとして提起されている。
第1次世界大戦以前までは、近代世界はヨーロッパを中心に成立していたといってもいい。しかし、戦争による疲弊で大英帝国の凋落が始まっていくなか、アメリカが経済の高成長を背景に〈覇権国家〉へと変貌していく。グラムシは、そういった世界情況を、〈アメリカニズム〉として捉えていく。ヨーロッパは自らの伝統と歴史というものが文明大国として成立させている基盤だと過剰に思い込んで停滞しているうちに、アメリカの台頭が加速していったのである。
『アメリカニズム』は『フォーディズム』という新しい労働・生産様式をともなっていた。グラムシのそれへの関心は早く、1919年から20年にかけて、トリーノにおける工場評議会運動からのものだった。しかも彼はそこで、トリーノのフィァト自動車工場に導入されたフォードの生産様式の合理性・普遍性が『労働者大衆に歓迎されている』のを見ていた。」(本書・19p)
そして、グラムシは、「時代遅れのヨーロッパ文明の物質的土台に変革をもたらし、それほど遠くない将来に、新しい文明の誕生を導くにちがいないと確信していた。」(20p)と著者はいう。これは、けっしてアイロニカルなことではない。わたし自身の経験でいえぱ70年前後のころ、構造改革(なにやら小泉政権のキャッチフレーズと同じ言い回しだが)というだけで、なにやら修正主義というイメージが付与されたり、フーコーやストロースに代表されたフランスの構造主義は、うさんくさいアンチ・マルクス主義というレッテルを貼られたものである。
フランスの構造主義が今日、ポスト・マルクス主義の思想的な潮流のいわぱ主流になっていることを考えれぱ、グラムシをはじめとする構造改革派の思想は、政治思想的にもけっして閑却されたとはいいきれないのかもしれない。
著者はいう。革命思想家グラムシは、党と大衆の関係は、絶えず相互作用しうるものでなけれぱならないと考えていた。また、国家論としては、政治的国家を上部構造として措定するのではなく、市民社会を文化的、イデオロギー的な意味において国家に対置すべきだと考えていたとする。党と大衆の関係を止揚していくということは、ほとんどアナーキズムの理念に近いといえるし、70年前後の新左翼運動でいえぱ、共産同叛旗派のスローガンだといってもいい。本書を読みつつ、わたし自身は、グラムシを代表とする構造改革派の思想を、かなり皮相に捉えていたと反省するしかない。
著者が、9.11以降の現在を解説するために、〈ポスト・アメリカニズム〉というモチーフをグラムシの思想に連結させて、わたしたちに今日的意味を提示しようとした姿勢は、理解できるつもりだ。
だが、混迷する現在の世界情況は、グラムシが視ていた〈世界〉とは、大きく変容し、変質すらしているといっていい。グラムシ理論では、捉えにくくなっているのが現在なのだと、わたしなら思うのだが。
黒川 類(評論家)