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抜粋 はじめに

私の学問的ルーツは(そして私の学位も)社会学であるにもかかわらず、私はいまだかつて社会学の教師であったことはない。むしろ、大学卒業以来、私は歴史学者、言語学者、社会心理学者、およびさまざまに異なる背景を持った、マスコミュニケーション(の制度)の研究を必要とする仕事についている人々と一緒になって「メディア研究」というハイブリッドな領域の仕事をして生活の糧を得てきた。
社会学者としての私にとって、メディア研究は最善の居場所のように感じてきた。というのは、メディアと結びついた現象ほど現代資本主義社会の生活にとって重要なものはないからである。この理由においても、今日の社会科学にとってメディアスタディズは、1960年代から70年代にかけての社会学と同じようなものだ【訳注1】。つまり、それは知的最先端にあり、急進的かつ挑戦的で、現代社会を理解するために欠かせないものである。アカデミアのほかの分野やメディアの一部の人々から、メディアスタディズに向けられる、嫉妬深く、しばしば子どもじみた中傷は、以前社会学自体が経験したものであり、メディアについて教え、研究し、調査するすべての者はこれを名誉の印として甘んじて受けなければいけないだろう。関係ないものとして周縁化されてしまう(無視されてしまう)よりは、技術革新反対者の知識人から敵意を向けられる方がましなのだから。
「メディア」を形成する形式やジャンルが多様化する中で、ジャーナリズムほど社会学的に重要なものはない。そして私は、メディアとコミュニケーションに関心を持っている読者に、何が重要なのかを、ジャーナリズムの社会学を提示することによって自らの学問的ルーツを再主張する機会をもてたことを喜んでいる。
本書は潜在的読者の中に社会学領域についての予備知識を持った専門家がいることを想定していない。本書は原則的には、必ずしも社会学の学位を取るつもりはないけれどもジャーナリズムの衝撃と社会的決定因について何かを知る必要のあるメディア研究の学生のために書かれている。それゆえ、私は可能なかぎり社会学の専門用語を避け、読みやすさと概念的明晰性とを組み合わせる手法を好んで採用した。もちろん私は、研究プログラムの中でメディア研究の一部分について学んでいる社会学および他の社会科学の研究者も本書の有用性をわかってくれることを望み、かつ信じている。
  1998年8月、スターリング大学にて
          ブライアン・マクネア 


【訳 注】
〔1〕かつて社会学が果たした役割を担っている、社会学がかつて占めていた場所にいる、という意味。

書評 信濃毎日新聞 06年4月9日

客観報道と思われている新聞記事やテレビニュースが、実は時の政権や企業のPR活動によって左右されていることに読者や視聴者は気付いていない。
英スコットランド・スターリング大でメディアを研究する著者は、湾岸戦争やブレア労働党政権などを例に挙げて検証。メディアが発信する情報をうのみにしないことが民主的な資本主義にとって重要と主張する。報道を批判的に読み解くメディアリテラシー習得の一助となる研究書。

書評 出版ニュース 06.4下旬号
「ブックハンティング 2006」

 最近個人情報保護法とか放送事業体制の改変論議など、マスメディア規制につながりそうな動きが目立っていて、それに警戒する動きもかなり活発になっている。マスメディアやジャーナリズムを取り上げた書籍の出版も多いようだ。その一つB・マクネア著、小川浩一・赤尾光史監訳『ジャーナリズムの社会学』(B6判・284頁・リベルタ出版・2600円)を読んでみた。
 原著者ブライアン・マクネアは英国スターリング大学の映画・メディア学講師で、原著書は1998年に書かれたものである。監訳者はマスコミ、ジャーナリズム研究者で、他の5名の訳者は若手研究者のようだ。原著者の序文によると、本書はメディアを学ぶ学生のために書いたというが、たしかに専門書と入門書の中間あたりに位置しているように感じられた。
 なお著者が論じるに当たって提示した諸事実はほとんどが英国の問題であること、また原著出版が1998年であるために、9・11同時多発テロ事件とアフガン戦争(2001年)、イラク戦争(2003年)に関連したジャーナリズムの動向などが言及されていないことに、物足りなく感じる向きもあるかもしれない。しかし本書の論旨はそれらのことによって影響されるようなものではなく、一般性の高い論議をしているので、問題はないと思う。
 全体の構成は第9章まであるが、そのうち第3章までが「第1部 ジャーナリズムの社会学−その背景−」、第4章以下が「第2部 ジャーナリズム制作の諸要素」と区切られている。ここでは章立て順にはあまりこだわらないで、私が興味を感じた点をいくつか紹介してみたい。
 第2章「ジャーナリズムとは何か」は本書の前書きのような役割をもっていると思われる。著者のジャーナリズムの定義は "現実社会についてのこれまで知られていない事柄に関する真実の叙述あるいは記録として作られたテクスト" ということのようだ。そしてそれは作り手の推測や意見や信条や価値観を伝えるものだといい、それらを生み出した社会の技術的、経済的、文化的歴史の知識がなければ解釈できない、ともいう。
 第2章「ジャーナリズムの社会学」では、ジャーナリズムの役割についての二つの論議、すなわち「競争パラダイム」と「支配パラダイム」の考察である。
 「競争パラダイム」とほ、西欧、北米などの自由主義的な資本主義社会において、多様な意見や性格をもつ複数のジャーナリズムが競争することによって、政治や文化の多元性が形成され、権力の乱用が制限される好ましい状況が生まれる、という考え方である。したがってこの場合、ジャーナリズムは、公共の利益への奉仕者である。もう一つの 「支配パラダイム」は、不平等で支配・従属関係のある社会において、ジャーナリズムはこれらの関係を維持するための文化装置だという考え方である。
 しかし著者は、支配階級も多様化し、大衆文化的情報もカオス状態であるため、これら二つのパラダイムはいずれも有効性が薄れるとみているようだ。
 第3章「ジャーナリズムの効果」では、ジャーナリズムのメッセージ内容がどのようなメカニズムによって効果をもたらすのかについて述べている。メッセージ内容そのものの問題は当然あるとしても、受け手の側にとっての情報環境も重要な要素であることを指摘している。そして現実には、人々はジャーナリストが伝えてくれることに過度に反応することもあれば、それを拒否することもあり、その受け取り方をジャーナリストがコントロールすることはできないという。
 第4章以下はジャーナリズム内部のメッセージ作りの側面を中心に考察している。第4章「ジャーナリズムの職業文化と組織的決定要素」では、まず編集局の組織のありかたがジャーナリズムのありかたに影響を及ぼした例として、環境記者の増大と工業記者、労働記者の減少を指摘し、さらにニュースの客観性、ジャーナリストの倫理規範、客観性、文化相対主義、ニュージャーナリズム、ニュース価値などについて触れている。ここでは客観性につながる論議が多く、文化相対主義やニュージャーナリズムも客観主義に対するアンチテーゼだという。
 第5章「政治環境」では、まずジャーナリストが政治機構と不断の闘争を演じなければならないとして、ジャーナリストの政治環境について4点をあげている。
 まず第1は、情報流通規制と報道の自由の法的制約の問題で、リベラルデモクラシー政治体制下では批判精神を容認するが、権威主義的体制下ではジャーナリズムをイデオロギー操作の装置として扱う。第2は政治文化の問題で、これは政治家とジャーナリストとの長期的で非公式・非制度的な関係にかかわる。たとえば1991年以降のロシアでは政治記者がひいき党派の代弁者として振舞っていることなどはその例であるという。第3はジャーナリズムと国家との経済的関係で、権威主義的体制では権力がメディアを所有するか統制するが、自由主義的資本主義体制ではメディアの公的所有を避ける。ヨーロッパでは放送を公的所有して番組内容には介入できないようにしている国が多い。4番目は政治の圧力である。用いられる手段は、暴力、法律、検閲、根回しなどさまざまで、いろいろな事例があげられている。
 第6章「経済的環境」は、ジャーナリストの仕事を経済的に規定する環境という点についてへの経済的要素の影響は、大きく分けると、ジャーナリズム機関所有者の影響力と、ジャーナリズムが生み出す商品が市場の競争にさらされることの2点であると著者はいう。
 第1のジャーナリズム機関所有の間患は、複数のヅヤーナリズム機関の所有権が過度に集中することの弊害を懸念する意見として、以前から表明されてきた。「左翼的な理論家…は、メディア経営者の大半が中道右派的な政治的見解を持つ傾向があり、さらに自らに利益を保守的なイデオロギーに奉仕させる傾向をも有している(と批判してきた)」ことをあげている。またメディア王といわれるルパート・マードックがアメリカにおいて事業を拡大してゆくことに対して、マードックは自分の政治的信条を拡大するために自分のメディアを利用しているのではないかと見る人がいることを紹介している。そしてマードックが英国の新聞を次々と買収して、英国の新聞界が保守的色彩が優勢となっている状況について説明しているが、実は97年の英国総選挙で政権が労働党に移ることが予想されると、マードックは選挙よりも前に自分の新聞の論調を労働党寄りに変化させていた、という事実も紹介している。
 第2のジャーナリズムが生み出す商品が市場の競争にさらされていることの問題に関しては、著者は、一般の新聞や放送において視聴者獲得競争による悪影響はそれほど深刻ではないとみているようだが、英国のタブロイド紙に代表される大衆ジャーナリズムに関しては比較的多くを語っている。
 大衆ジャーナリズムが得意とするところはセンセーショナリズム、スキャンダル、断片的話題だが、とくに英国ではそれが「反エスタブリッシュメント主義」になっていながら大衆の反動的な気分をも現しているという、矛盾に満ちた言鋭だとみる。そして盛んに行なわれている王室報道を例にあげながら、大衆ジャーナリズムが権力層の不正暴露で利潤を得ているのは「体制転覆的なジャーナリズム」につながっているといい、もし王室制度廃止があればそこに資本主義的な新聞が貢献したことになる、と指摘する。私の印象では、英国の大衆は、仮に王室制度が廃止されても、それを体制転覆とみなすだろうかと疑問に思う。
 ただ著者が、メディアの「偏向」について過度に単純化された告発をすべきではない、と警告していることは、留意すべきだろう。
 第7章「技術的環境」は、情報通信技術進歩の影響の問題である。通信技術は、情報伝達の空間的拡大と即時性へと進んだ。その影響は、ジャーナリズムの内容の希薄化をもたらしたという問題もあるが、政治情報の即時グローバル化によって政治家による情報コントロールを困難にし、専制政治を不可能にしつつある。
 アメリカのメディアによる文化帝国主義の問題に関しては、著者はニュースの質と各国の文化的背景からみて、大きな影響力はもてないと予想しているようだ。
 それからデジタル通信技術に関しては、既存の放送局の質の高いジャーナリズム活動がカギになるといい、インターネット時代でも、印刷物は生き延びるだろうとみているが、同時に、「インターネットには、メディアを民主化する潜在力がある」ともいっている。ただし、この論議は、1998年段階の英国での状況をみて論議していることに注意しておかなければならない。しかしそれでも私の印象からすると、もしこの著者が2006年の現在時点でこのテーマについて論議したとしても同じことをいうだろうと想像する。
 第8章「情報源の社会学」は、メディアの情報源となっている政治勢力や企業の動きを取り上げている。そこで最も注目しているのはパブリックリレーションズ(PR)である。ジャーナリズムのニュース判断の傾向を十分に計算して情報を掟供する技術は格段に進歩しているが、「PRの技術と道具は…収入と地位において…社会的不平等(であり)不公平に普及している」と指摘している。
 第9章「コントロールからカオスヘ―新たなジャーナリズムの社会学に向けて」では、ジャーナリズム世界は流通する情報の量とフローが著しく増大していて、コントロールすることも、予測することも不可能であり、これまでの経験とは質的に異なっているとみて、これをカオスと呼んでいる。だが、著者はこれを悲観的には見ないで、むしろ「興味深い」とみている。
 なかなか広い視野と懐深い目配りをした本である。翻訳としては、直訳的すぎたり、用語に少し配慮不足と感じられる部分も散見するが、内容的にはジャーナリズムの問題を一般的に考えるうえで有益な本である。
                      中川隆介(評論家)

ジャーナリスト 06年4月25日

 技術革新とカオス的情報流通の中
 強まるジャーナリズムの商品化


 英国スターリング大学メディア学専攻の著者は、ジャーナリズムを「市民参加による平等な知的競争が可能な伝達・表現機能」と捉えるか、「階層化された社会の支配に資する文化装置」とみるか、大きく見解が分かれてきたという。
 著者は後者の考えに同調しながらも、メディアを巡る技術環境が様変わりした90年代以降は、「カオス的情報流通」の社会となり、ジャーナリズムの効果は予測不能で機能も無限定になった、と指摘する。
 客観性、不党性、情報源の信頼性、ニュース性、文化相対主義など、倫理規範が言われるが、残念ながら政治、経済、技術、市場などの外部圧力に左右されている、と説く。
 報道メディアを統制する政治的圧力の行使は、暴力、法規制、検閲、ロビー活動など多様である。英国ではメージャー政権を支える保守党が、97年の選挙の直前、BBCの放送内容に注文をつけ、「民営化への脅迫」がなされている。
 経済的圧力では、ルパート・マードックが自らの所有する「サン」の紙面に、サッチャー政権への露骨な迎合記事を書かせ、利益誘導を図っていたが、97年には、労働党政権に乗り換え、すぐに紙面を変え、損失回避に奔走する。
 メディア技術の進歩は、時間的・空間的障壁を撤去した。すると放送メディアでは、「腱反射の人気取り」とよぶ、リアルタイムニュースの垂れ流しがグローバルに展開される。テッド・ターナーが立ち上げたCNNは、湾岸戦争の実況を衛星配信で全世界に流して成功した。それは「単一のグローバル配信による文化帝国主義」という脅威と世界支配にもつながる。
 インターネットはどうだろうか。誰にも軽便に使えるサービスには既存のメディアを民主化し、新たな公共圏を再構築する潜在力がある。
 その公共圏に巧妙に入り込むのが、商品として売買されるPR企業の広告戦略や政党プロパガンダ。消費者への暗示的刷り込みや政治への世論誘導に工夫を凝らす。さらにジャーナリズムは不安定なカオス状況に置かれる、と説く。
 いま厳しい批判が寄せられる日本のジャーナリズムを考えるに、本書の指摘や鋭い考察は、きわめて示唆に富む。
          守屋龍一(日本ジャーナリスト会議事務局長)

図書新聞 06年06月17日

カオス的な尖鋭的な視覚
メディア・ファシズム的今日の報道と対極


 2003年3月に開戦されたイラク戦争が、依然、出口の見えない混乱を引きずっているなか、あの1991年初頭に起きた、いわゆる湾岸戦争は、記憶の彼方に置き去りにされようとしているかのようだ。イラク軍のクウェート侵攻そして併合宣言に端を発した、アメリカを主力とした多国籍軍による一連の空爆映像がCNNの衛星中継画面で流された時、わたしたちは、ある種の驚きを抱いたものだ。夜空の花火のように散乱する空爆による炎は、戦争中継とは思えないものだった。フランスの思想家ジャン・ボードリヤールは、そんなメディア映像による戦争の濾過の仕方に対して、『湾岸戦争は起こらなかった』という論集を著わしたことは象徴的だった。その後のセンセーショナルな油にまみれた海鵜の映像が、捏造だったという出来事も含め、高度資本主義社会におけるメディア・ジャーナリズムの問題点を様々に露出せしめたと感じたのは、わたしだけではなかったはずだ。
 本書の著者は、イギリスのスターリング大学の映画・メディア学講師であり、スターリング・メディア研究所のメンバーでもある。1998年に出版されたものの翻訳であるにもかかわらず、わたしが真っ先に、湾岸戦争時を想起したように、本書は、先進資本主義世界(主としてイギリスのメディアをテクストとしている)におけるジャーナリズムの様態を詳細に分析してみせてくれている(本書でも、グローバルニュースビジネスという観点からCNNを取り上げている)。そして、ジャーナリズムが忌避できない臨界線の問題、政治的にも経済的にも体制という渦動にしかそのレゾンデートルはないということを指し示している。著者のいい方に、ならえばこうなる。
 「ジャーナリズムは(略)、人間の作った他のあらゆる物語と同様に、本質的にイデオロギー的である――(意図的であろうがなかろうが)それは事実そのものではなく、ある世界観から導き出され、その世界観を表出する、送り手の推測や意見や信条や価値観をオーディエンスに伝えるための、コミュニケーションメ
ディアである。」(17P−傍点は著者)
 「少なくとも先進資本主義世界においては、生産から消費に、利潤の苛酷な蓄積から大衆的豊かさと政治的合意の維持へ、さらに文化的領域においては、モダニズムからポストモダニズムへと主眼点も変更してきた。(略)その中で新たなジャーナリズムの社会学も求められている。もちろん、社会学というのは決して予言の科学ではないし、動作の精密な法則が発見されるわけでもない。(略)しかし、社会学はたとえそれが究極的には立証不可能であったとしても、研究の主題である社会現象について説得力を持って説明するという責任を回避することはできない。支配パラダイムによってまさに支配されてきたジャーナリズムの社会学は、そうした責任を果たすことができないでいる。」(62〜63P)
 本書は、「必ずしも社会学の学位を取るつもりはないけれどもジャーナリズムの衝撃と社会的決定因について何かを知る必要のあるメディア研究の学生のために善かれている」(「はじめに」)と著者は述べているが、もっと読者層を拡張してもいいように思う。なぜなら、著者の視線はメディア論という枠組みから先進資本主義世界を透徹しようとしているからだ。
 「ミーム[イデオロギー]の貯水池の中には、つねに他の、対立する傾向とか、他の
説明、他の解釈が存在している。それらは、イデオロギー的偏向に向かう傾向を無効にし、均衡を与えるものである。カオス的情報流通と私が名づけた、このモデルにおける報道メディアのイデオロギー的役割は、支配を切望して闘うが、必ずしもそれを達成できるわけではない価値や思想を主張し、普及するというものとなった。イデオロギー支配が達成される(あるいは抵抗されたり、無為にされたりする)過程は、システム的ない
しはヒエラルキー的に序列化されているというよりは、無原則で予測できないものである。」(64P−傍点は著者)
 ジャーナリズムの現在的な環界を精緻に論及しながらも、著者が向かおうとする方位は、支配のパラダイム下におけるジャーナリズムの問題点でもなく、また、白由で自律的なスタンスヘと位置づけを行おうとするものでもない。高度情報化時代におけるジャーナリズムが置かれている場所は、まさしく予測不可能なカオス的な位相であるという極めて尖鋭的な視角を確定することにあるといえそうだ。「カオス的情報流通」と著者が命名するものをわたしなら、メディア・アナーキーとでもいいたくなる。もちろん、わが国の低俗なニュース
報道がメディア・ファシズムといえることと、当然、それは対極にあるものだ。ひとつのメディアが占有的に提供していると確信する情報より、実は情報伝達の高度化によって他の多様なメディアからの多様な情報を、オーディエンスが選択して受信するとしたら、そこは、コントロールが自在にできない地平(多様な説明・多様な解釈が可能なこと)へと移行していくことを意味している。著者の見据える方位は、そういうカオスとアナーキーな場所なのだ。
                       皆川 勤(評論家)

総合ジャーナリズム研究 06年夏号(No.197)

 イギリスのスターリング大学で映画・メディア学の講師を務め、同時にスターリング・メディア研究所のメンバーでもある著者が98年に著した研究書で、メディア研究の学生のために書かれたもの。
 第1部「ジャーナリズムの社会学トその背景−」では、ジャーナリズムとは、という根源的な定義を手始めに、具体的な事例をあげながらジャーナリズムと社会との関係性について詳しく検証していく。第2部「ジャーナリズム制作の諸要素」でジャーナリズム内部に視点を移し、政治、経済、技術的環境や情報源がそれぞれジャーナリズムにどのように影響を与えるかを客観的に議論し、分析。
 現在の状況を「コントロールよりむしろカオスが広がる傾向」と指摘している。