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抜粋 まえがき

数年前、関西でのマスコミ学会の折、「原塾」という名の勉強会をやろうか、と話が出た。しばらくして茅ケ崎の私宅でスタート、隔月でマスコミをめぐる諸問題をとりあげた。報告者を決めての討論後、1杯やりながらダベるほうが人気があったようだ。そんな中からこの本は生まれた。まとまった見解を求めたわけではない。あれこれメディアのあり方を議論していく過程で、日本社会の現状をどう見るかという方向に進んだ。私がいつも「市民革命の経験のない日本では」という言い方をするので、それに食いつかれた形である。
その私が「市民社会とメディア」の現段階とあるべき原理を求めて序章を書き、「市民社会」を大枠として各人がテーマを立てて、個人的な問題提起を試みた。
石川旺は、カナダのケーブル・テレビで市民参加を調査研究してきたのを背景に、住民投票に見る日本の住民自治とメディアのあり方を方向づけている(第1章)。
音は、日本の読者・視聴者像を見直し、地域市民参加型の番組づくりの芽を拾い、インターネット時代が開く市民社会の公共空間の可能性を論じている(第2章)。
藤森は、新聞労連委員長の経験の上に、記者たちによるメディア改革運動の軌跡をたどり、市民との提携によるジャーナリズムのあり方を模索している(第3章)。
石川明は、「メディアの内部的自由」の研究第一人者として、ドイツの新聞・放送内の自由の問題点を追求、日本の「編集権」の実態とその壁を克服する道を展望した(第4章)。
吉澤は、当面の課題となってきた新聞倫理綱領の歴史検証と記者意識との関連を解明、本橋は、市民社会時代の記者クラブのあり方を点検、両者で1本にまとめた(第5章)。
序章の概論について言えば、いつもながら「書き終わったときにようやく問題点を知る」という思いを白状せざるを得ない。市民社会論としては、社会主義との関係をはじめ階級対立や生産形態の展望などには触れず、各種のアソシエーションや協同組合と市民社会の関連などにも、勉強不足で言及しなかった。あくまでメディアをどう変革するか、改革できるかの観点を主にした原理的素描に終わっている。
しかしジャーナリストが平和的、永続的な市民革命の主役になるべきだし、なり得るとの考えは強まった。そのための条件作りをジャーナリストと市民の力で実現すべく、1歩でも踏み出したい。7人の試論が少しでもその参考になればと思う。

書評 AURA フジテレビ 139号

マスコミ批判・不信は今に始まったことではない。積もりつもった不信を「20世紀に置いていく」ための処方箋としての1冊。病理をつまびらかにし、病巣を突き止め、オルタナティブな治療法を示す。主たる病人は新聞とテレビだが、目指すべき市民社会の原理からすると、新聞の症状の方がより重篤のようだ。
世代間の同時代意識が急速に薄れ、社会規範のモラルハザードはとどまることを知らない今、だからこそ新聞復権の必要性を説く声は少なくない。しかし、最近のマスメディアに対する批判は、権力側と市民の側で奇妙な一致を見せている。編者が言うよに「民衆と権力の挟み撃ち」状態にありながら、マスメディアは「言論の自由の問題はメディアの問題」とばかりに、自主的対応策を明確にしない。

書評 週刊エコノミスト 00年3月21日

「カエサルの妻は疑われてはならない」という。それはつまり、普通の市民と比べて政治家はその行動や身持ちでより潔白であることが求められ、警察官は規律に厳しく、裁判官は厳正であることが求められることをさしている。とするとメディアはどうなるだろうか。メディアに従事するジャーナリストは政治や政治家について、警察について、裁判について語り伝えるのである。
このところ、神奈川や新潟の県警の不始末や金融再生委員長の失態など、ジャーナリスト以外のところで疑われる「カエサルの妻」が多い。しかし、それは、メディアに問題がないということとはちがう。
かつては『デスク日記』の著者として知られ、近年では日本のマスコミの発表ジャーナリズム化と批判意識の衰退に警鐘を鳴らし続けてきた原寿雄氏が、中堅と若手のマスコミ研究者と私塾を開き、そこで取り上げられた議論を塾生たちとともに展開するのが本書の構成になっている。発表ジャーナリズム化が乗りこえられたわけではないが、問題の中心は現在に引きつけられている。
たとえば現在、日本新聞協会は新聞倫理綱領の改訂の作業を続けている。占領下に作られた倫理綱領が時代に合わなくなっているからというのがその理由である。なるほど倫理綱領を厳しくし規律を保てば、「カエサルの妻」たることを疑われることは少なくなろう。そのこと自体はいい。しかし、新聞協会の現在の首脳部による進め方のほうはどうか。「政治的圧力を背景にして新聞業界の思惑が見え隠れする」のは、日本のジャーナリズムにとってよいことではないだろう。編者はそういう。
メディアは権力と市民・読者との緊張のもとに成り立っている。1000万部とか800万部とか世界に類例のない発行部数をもつ新聞はそれ自体が大きな権力でもあるが、常に権力濫用を監視する「番犬」であるためには、新聞社内での言論の自由が確保されていなければならない。塾生たちが「編集権」について言及するゆえんである。しかし、韓国の新聞との比較の部分では、かの地では創業者一族が株の九割以上を持ち、編集に介入することがあるなどを考慮に入れないと十分ではないのではないだろうか。メディアと市民・読者との関係はどうか。国民はその水準に見合った政治を持つように、見合った水準のメディアしか持たないという。メディアの低劣さが嘆かれるとしたら、それは市民・読者の問題と切り離せない。自宅や会社では捨てないタバコの吸い殻を、街路では平気で捨てる。このような公共空間の意識を改めさせる働きが、メディアには求められていよう。
そのことは政治的圧力を背景にして、つまり「国の側」からメディアを改革するのではなく、市民・読者と連帯して、よくしていくことである。
欧米が理想の市民社会というわけではないが、市民参加やジャーナリスト教育も含め、隔たりはまだ大きいことを考えさせる。

書評 総合ジャーナリズム研究 no.172

新ガイドライン関連法、盗聴法、国旗国歌法と、市民の自由な活動を脅かしかねない法案がいとも簡単に成立し、国家主義的な動きが台頭する中で、国民のジャーナリズムに対する様々な不満を背景に、権力による報道への介入の動きもまた強まりつつある。本書は、こうした状況に強い危機感を持ちながら、ジャーナリスト原寿雄氏のもとに集まってメディアの在り方を議論している「原塾」のメンバーが、「市民社会」をキーワードに、それぞれの立場からメディアをどう変革するか、また、改革できるかを論じている。全体は六つの章から成るが、まず序章「市民社会と報道の原理を求めて」(原寿雄)では、市民社会の末成熟な日本でメディアに公的規制を求めることは危険であり、そのためにはまずジャーナリスト自らが「市民度」を高めなければならないと説く。以下、第1章「自治のためのメディア」(石川旺)、第2章「『市民』的内発性とマスメディア」(音好宏)、第3章「メディアの市民社会化」(藤森研)、第4章「市民社会とメディア企業」(石川明)、第5章「市民社会の記者像」(吉澤正一・本橋春紀)。世代や立場を越えて闊達に論議が交わされている。

書評 GALAC 放送批評懇談会 00年4月

今、日本の大手メディアでもっと欠如しているものの1つ、それは「市民」意識。しかし、より多<の国民が市民としての自覚をもつようにするためには、マスメディアの働きは欠かすことができない。本書はそのギャップを埋めるために、メディアの実際をもっとも良く知るメディア研究者たちが、討論しあいながら研究をまとめたものである。
「まえがき」で原寿雄は述べる。「ジャーナリストが平和的、永続的な市民革命の主役になるべきだし、なリうるとの考えは強まった。そのための条件作りをジャーナリストと市民の力で実現すべく1歩でも踏み出したい」
デジタル化と衛星の波に大きく揺さぶられている放送には石川旺が地域多元的なメディアの構築をよびかけ、「国民」から「市民」への内発的転換を音好宏と藤森研がさぐっている。また、「編集権」が企業の中でどこに存するかを市民との関連で石川明が論じ、最後に吉澤正一と本橋春紀が、市民社会において記者たちはどのような倫理をもちどのようなプロセスで取材するべきかを、現状を批判的にとらえることで示している。
編著者の原は「市民革命の経験のない日本では」という言い方をよくするそうだ。本当に日本では第2次世界大戦後に「ぽい」と与えられた民主主義というシステムさえまだ十分に機能しないので、国民意識から抜け出すのにさえ道は遠い。でも、1990年代は、政府や大企業マスコミをしり目に、一般の人の中から市民運動が盛り上がった。こういう形でできるのが本当の市民なのだから、メディア人たちにはせいぜい「あまり遅れないように」というのが本当のところかも知れない。ちょっと歯痒いけれども…

書評 図書新聞 00年4月15日

本書は、表題が示すとおりふたつの位相をめぐって論じられている。つまり、ありうべき市民あるいは市民社会とはなにか、またどうあるべきかという問題、そして、メディアとは何か、どうあるべきかという問題。編者もふくめ、本書の論者たちに共通していえることは、このふたつの位相は、ほんらい相互にコミュニケートしてはじめて、ありうべき社会を描くことができるはずだという認識である。
わたしは、本書を読みはじめてすぐに市民あるいは市民社会という概念に正直にいえば戸惑いを覚えた。「まえがき」には市民革命という言葉も登場して、さらにその感を強くしたともいえる。論者たちの多くはメディアに関わってきたひとたちのようだ(執筆者たちの履歴がいたってシンプルに紹介されているので推測でしかないが)。主眼はだから、「近代民主主義社会のジャーナリズムは民衆の側の言論の武器として機能し、民衆とメディアが連合して権力と向き合ってきたはずなのに、今ではメディアが民衆と権力の挟み撃ちに遭っている。」(10p)という地平からいかにありうべき場所へ進むことができるかということのような気がする。市民ではなくここでいうように民衆でも大衆でもいいように思うが編者、論者たちは市民という概念にこそ主題を込めようとしている。
あるべき市民社会の構成員は「個の尊重と自由・平等の意識のうえに協同して社会の運営に責任を持っで積極的にかかわる自律的人間」であることが要請される。私性の尊重と公共性意識を両立させ、互いに個の主体性を確立しながら自律的社会運営の協同自治に積極的に取り組む社会人、それが「市民」の要件となろう。(本書・序章30p)
そして、「人民」は「社会主義陣営の手垢に汚れ過ぎて親しみを失い、左翼用語として葬られてしまった」とし、「国民」は「ガバナンス(統治)の対象としての響きが強く、革命の権利意識から程遠い」と断じる。さらに「市民度」を測るものとして[天皇との距離についての意識」であるとまで述べる。
わたしは、ここで述べられている主意についてはほとんど首肯したい気持ちだ。だが、依然「市民」という概念にたいする戸惑いは払拭できない。かれらが「市民」という言葉を広義な意味で使おうとしているのはわかるが、「人民」や「国民」がそうであるように「市民」もまた都市社会に包括された言葉としてそれこそ手垢に汚れ過ぎてしまっているとわたしには思える。国家にたいしてアンチとして市民社会という概念を措定しようというのならもっと違う言葉をイメージ化できるはずだ。
メディアをめぐる発言群にも、[市民」という言葉と同じように、なにか逡巡してしまう感じをわたしはおさえることができない。
確かに、素直に首肯できてしまうことが述べられているのだが。
「地域における自治の復権をめざすのであれば、地域に立脚した住民のための放送メディアが獲得されなければならない。」(80p)、「『メディアをを国民のもとに』という理念を、現代の市民社会化の文脈で再定義すれば、具体的なキーワードは『自由』『連帯』『参加』である。」(134p)、「記者クラブは本来、市民の知る権利の側に立った『権力監視の橋頭堡』という機能も持ちうる。」(142p)と、これらの発言からうける印象は“ありうべき場所”へ立つことの意思表示だともいえる。もちろん、くりかえしになるが、わたしはそういった方向性を否定するつもりはないし、指向性として理解しているつもりだ。にもかかわらず、なにか、わたし(たち)との間に空隙を感じてしまうのだ。
あるべきこと、あるいはありうべき場所を、もはや、わたし(たち)は確かな手触りのあることとして理解するには困難な「場所」にいつづけているからだと思う。だからといって絶望的になることはもちろんない。“自立する市民あるいは民衆”、“市民や民衆のためのメディア”、“権力からつねに自由であるメディア”といった既知のことがらを、わたしなら1度、解体して考えるべきだという気がする。そのうえで空白の未知の場所に降り立つことからしか、新たなことは始まらないと思う。

書評 放送レポート 00年5月

日常生活では何気なく使われている「市民」というコトバをキーワードにして、いまの日本の社会状況とジャーナリズムの現状をえぐり出し、どうあるべきかについて提示してみせたのが原寿雄編『市民社会とメディア』(リベルタ出版・本体1900円)である。
編者は誰しも認めるメディア界のオピニオンリーダーの1人だが、数年前から編者を中心とする塾が作られ、その成果として生まれたのが、この本だという。テーマに従って編者をはじめ、計7人が執筆しているが、圧巻は編者による序章「市民社会と報道の原理を求めて」だといっていい。
まず、編者は、「現在の日本社会は、あるべき市民社会への入口に立って戸惑っているように見える。日本社会の古いしきたりと呼ばれているものの中には、捨て去るべき前近代的な慣習、慣行が少なくない。何よりも日本社会は、『個』が確立していない」と指摘し、「市民」の要件としては「個の尊重と自由・平等の意識のうえに協同して社会の運営に責任を持って積極的にかかわる自律的人間」だと主張する。
つまり、市民革命を経験していない日本の場合、戦前は「皇民」「臣民」であり、戦後は「国民」となったものの、真の意味での「市民」は少数派であり、しかも、「国民」意識の強調は「いつの間にか敵を作る国粋的な愛国主義ナショナリズムに陥る」ことになっているのが現状である。
それだけに、「このまま進めば日本は、国家・政府をチェックコントロールする母体としての市民社会の未成熟のまま国家主義が肥大化し、やがて市民社会そのものを閉塞状態から破壊へと導いてしまうだろう。真のジャーナリストたちは、この試練を越えて、平和な日本型市民革命の道の模索・追求に生きがいを見出すことを期待したい。ジャーナリストはあるべき市民社会づくりの主導権を取ることがなお可能なはずである」という指摘は貴重である。

書評 ジャーナリスト 日本ジャーナリスト会議 00年3月25日

この本は原寿雄さんなど私たちジャーナリストの先輩、同僚、そして私たちと一緒にジャーナリズムを考えている人達の共著。
日本はもはや「モラルハザード」と気取って言うには恥ずかしいほどの状況だ。たとえば神奈川県警、新潟県警、自衛隊、そしてなによりも小淵政権の無策。
その一方で巻原発や芦浜原発、吉野川河口堰等に見られる住民運動の新しい波。
この本は今のマスメディアが、政権と市民との両方から鋭い批判を浴ぴているにもかかわらず、何ら自主的な対応策を採っていないことを指摘している。
特に視聴者や読者を単に視聴率や読者数という「数字」に置き換えてみていたり、市民運動を軽視するマスメディアを痛烈に指摘している。
本来、マスメディアは「第四の権力」と言われるように、力が強いものというのが定説だが、今のマスメディアの力強さは、権力に対してではなく、権力の側に付<ことによってとさえ言えるだろう。
この本は「市民の立場」「市民の側にたったマスメディア」を強調している。それは、私たちが忘れがちな「誰のためのメディアなのか」を再び考えさせる。
さらに、これからジャーナリスト、マスメディアの進むべき方向として、「市民とともに」「市民の立場」に立ったマスメディア、ジャーナリストを提示し、KBS京都放送や、米子市のCATV[中海テレビ」などの市民参加の番組作りを紹介している。これは今後マスメディアが本当の意味で市民と一緒になり、市民に信頼されるメディアになっていくための1つの重要な方法であろう。
原寿雄さんが「まえがき」で「ジャーナリストが平和的、永続的な市民革命の主役になるべき」とし、「そのための条件作りをジャーナリストと市民の力で実現すべく、1歩でも踏み出したい」と述べているが、まさにそのために書かれた本であり、これからの私たちの進む方向の1つを示したものだ。

書評 新聞労連 新聞労連 00年6月1日

「このまま進めば日本は、国家・政府をチェックしコントロールする母体としての市民社会の未成熟のまま国家主義が肥大化し、やがて市民社会そのものを閉塞状態から破壊へと導いてしまう」(序章より)との現状認識から「市民社会とメディア」の現段階とあるべき姿およびその原理を模索し、テーマごとに各筆者が問題提起したのが本書。
編者は元共同通信編集主幹でジャーナリストの原寿雄氏。まず、原氏が序章「市民社会と報道の原理を求めて」で、国民でも人民でもない「市民」を定義し、「市民社会のマスメディアはどうあるべきか」と問う。
それを受けて「原塾」に集うジャーナリスト、メディア研究者らが▽自治のためのメディア(石川旺氏)▽「市民」的内発性とマスメディア(音好宏氏)▽メディアの市民社会化(藤森研氏)▽市民社会とメディア企業〜「編集権」をめぐって(石川明氏)▽市民社会の記者像(吉澤正一氏・本橋春紀氏)─とそれぞれのフィールドから多角的に問題提起。元労連委員長の藤森氏はメディア労働運動の側面から「労組の自己変革の方向」についても触れている。各提起から浮かび上がるのは「自律・自立した個の連帯による市民社会」にふさわしい「真のジャーナリストたち」への熱い呼びかけである。

書評 赤旗 00年7月3日 読書欄

日本のメディア状況が大きな転換期を迎えようとしているとき、最近のマスコミ、ジャーナリズムをめぐる著作傾向はどうなっているか―このことは、多くの読者にとって関心の深い事柄の1つでしょう。そこでことし前半に出版されたマスコミ、ジャーナリズムに関する著作のなかからいくつかを紹介しておきましょう。
原寿雄編『市民社会とメディア』(リベルタ出版)は、一般紙の現役論説委員、研究者ら7人の論者がそれぞれの立場から、いま21世紀へむけて市民、読者との連携によるジャーナリズムのあり方を模索しています。知られているように、権力、自民党はメディアチェック運動や選挙時の世論調査報道の規制などさまざまな形での抑え込みを強めています。一方、新聞協会は、新聞編集と記者活動の指針としている「新聞倫理綱領」の見直しをきめました。記者クラブを舞台にした"発表ジャーナリズム"も相変わらずです。さきの森首相の「神の国」発言(5月15日)をめぐる釈明会見について、その“手引書”を書いた記者がいたとの疑惑もあります。権力と一部記者との癒着が依然根強いことを印象づけました。「ジャーナリズムの危機は民主主義の危機であり、市民社会の危機であることを強く世論に訴えるべき時ではないか」(序章)というフレーズのなかに、本書出版の意図が語られています。

書評 fct GAZETTE FCT 00年11月

本書は、市民社会を基本的なコンセプトとして7人の研究者の論考で編まれ、5章で構成されている。序章では、編者が市民社会とメディアの現状況下における原理について、第1章では、石川旺が住民自治とメディアのあり方について、第2章では、音好宏が「国民」と戦後ジャーナリズム、マスメディア側からの視聴者の視点、新しい市民参加型メディアの現状について、第3章では、藤森研がメディアの労働運動について、第4章では、石川明が目本のr編集権」の現在について、第5章では、吉澤正一/本橋春紀が記者意識と記者クラブについて、それぞれ述べている。
ここでは、市民社会の定義について言及した序章の「市民社会と報道の原理を求めて」(原寿雄)をとりあげることにする。
この章では、1「いまなぜ『市民杜会とメディア』なのか」において、日本のメディアが、権力と世論によって挟撃されていることと日本のメディアに公共性がないことを指摘している。さらに市民革命の歴史を持たず市民運動の弱い日本では、市民社会が未成立、未成熟であると述べ、政治制度としての民主主義の枠を越えた市民社会の必要性を唱えている。
2「『市民』とは誰か、どんな『市民社会』をめざすのか」においては、市民社会の構成員のあり方、その具体例、市民社会に不可欠な原理について述べている。ここで筆者は、市民社会の構成員のあり方を「尊重と自由・平等の意識の上に協同して社会の運営に責任をもって積極的にかかわる自立的人間であることが要請される」と定義している。
最後の3「市民杜会とマスメディアはどうあるべきか」においては、目本のメディアが政・官・財の大組織に偏っていること、ジャーナリストが市民としての自覚を持つことの必要性を述べている。そして市民社会におけるマスメディアが、「読者・視聴者をメディア文化創造のパートナーとし、オーディエンスに鍛えられ守られながらジャーナリズムとしての社会的役割を果たすものでなければならない」としている。
筆者は、市民杜会の閉塞状態を危慎し、ジャーナリストたちが日本型の市民革命を模索することに期待したいとし、「ジャーナリストはあるべき市民社会づくりの指導権を取ることがなお可能なはずである」と結んでいる。