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抜粋 まえがき

「テレビの番組は放送局の特別な人がつくるもの。テレビには特別な人しか出演できない」という刷り込みが、長い間、私たちにもテレビ局にもあった。よく考えるとどこか変なのだが、テレビ局はそうした錯覚を利用して、郵政省の監督を背景に長い間通信資源を独占的に使ってきた。近年、同じようなショー番組の氾濫や、TBS事件など市民感覚を逸脱したテレビ局事件の多発で、テレビ局幻想には誰もがうすうす気づいてきてはいる。しかし、あまりにハードになってしまったテレビというツールに対して、多くの人は一種のあきらめに近い隔たりを感じているのではないだろうか。
長らくテレビ局で働いてきた筆者も、その隔たりを感じていた1人だが、アメリカでは、ごく普通の市民が自分たちで番組を作って、当たり前にケーブルテレビにのせているということを数年前に知って、どうしてそういうことができるのか、ぜひ詳しく知りたいと思っていた。やっと1997年秋、この本の共著者たちを含むグループで、市民が作るテレビ、パブリック・アクセス・チャンネル(PAC)の実態をみて回って、全米の市民がどこでもテレビカメラやスタジオをあやつり、自在に個性的なテレビ番組を作っていることに強いインパクトを受けた。
長い実践の中からそれらの活動を支える法律を制度化させてきたこと、さまざまな形の支援システムを作っていること、考え方が対立する相手の番組さえも応援していること、パブリック・アクセス番組の全国放送のネットワークを作っていること、さらに一歩進めて市民参加を制度化する「電気通信アクセス法」を制定しようと運動していることなど、そのパワーにはほんとうに脱帽した。「言論・表現の自由」を文字どおり日々実践することで、権利として豊かに血肉化させているのだった。
これより先1995年、アメリカの非営利市民団体(NPO)の活動を日本に紹介してきた日本太平洋資料ネットワーク(JPRN)の案内で、アメリカ西海岸の情報関連NPOの活動を見学してまわったときのこと。その日程中にアメリカの情報・メディア関連のNPOの人たちとの何回かの討論の機会があったのだが、そのたびに彼らは「日本の市民団体はどういう未来社会をイメージしているのか。現在のシステムを変革するためにどのようなメディア戦略を立てているのか?」「マスメディアやコンピュータへの参加をどう評価しているのか?」と私たちに繰り返し迫った。戦略という言葉は穏やかではないが、目標達成のプロセスがとてもわかりやすい。市民が巨大な電話会社の不正を糾し、裁判で勝ち取った何億円もの罰金から基金を作り、情報化の恩恵にあずかれない低所得層に低料金の電話制度を作ったり、広告専門NPOがテレビや新聞を使って森林保護や反戦のキャンペーンを張ったりしている。なおかつそうした活動を事業としてペイさせているのをみて、こんなことができるのかと驚いた。
市民が情報とメディアの資源全体を計算し、市場に出すべきものと、公共・非営利目的に使うものを総合的に立案し、たえず政府に働きかけてゆく。またある目的のために活用できそうなすべてのメディアを有機的に組み立て、まさに戦略的に動員しているNPOのダイナミックな活動には、うなってしまった。彼らには、情報やメディアを市民社会のツールとして活用してゆく強靱な精神と、具体的実行計画が徹底している。しかし彼らも、そうした「戦略的な考え方」をするようになったのは80年代になってからだというので、少々安心(?)した。彼らが特別なわけじゃない、もしかしたら日本でもやれるかもしれない、と。
ところで、いま日本では情報やメディアのありかたが、社会システムの急激な変化や、価値観の多様化という大波に激しく洗われている。
社会システムの面では、政官業体制の劇的な破綻、深刻化する環境問題、広がる首都圏と地方の格差、また急速な高齢化・少子化などが構造的に深刻な問題になっている。これまでの日本型の中央集権制度と企業中心の閉鎖的な社会システムの限界が明らかになって、分権と自治、情報公開と市民参加型の政治、非営利・公共の経済領域の拡大などの改革が迫られている。当然、郵政省と通信・放送企業に独占されてきたこれまでの情報・放送システムの責任も大きい。
他方、文化や価値観の面からみると、男女、世代、地域、民族の間などの意識や価値観のひらきが、社会的に大きな問題を生み出してきている。たとえば男女の意識のひらきが、非婚化現象や少子化、家族の変容、人口構成の偏りなどの原因のひとつになってきていることは誰もが認めざるをえない。追い込まれ荒れる子どもたちの問題も、コミュニケーションの断絶や、貧しいマスメディアのありかたに大きな責任があるだろう。女性や子どもの深刻な悩みや価値観がメディアには反映されず、男性や大人には伝わっていない。いったい情報化社会とは何なのだろうか。
日本でもあいついでデジタル放送が始まりつつある。衛星やケーブルテレビの普及が、デジタル化や規制緩和政策、外資系メディアの進出に加速されて、多チャンネル時代に突入しはじめた。そうした多メディア、多チャンネル化は本来、ふつうの市民の情報入手、コミュニケーションと意思決定、発信、さまざまな問題の解決、公平な社会の形成などに大きく寄与してくれるはずである。しかし、これまで何回か繰り返されてきた「ニューメディア・ブーム」は、いつも市民・視聴者不在のまま、一部の関連産業と官僚主導による空騒ぎに終わり、人間どうしの関係や対話、コミュニティの絆をかならずしも豊かにしてはこなかった。今回の「デジタル革命」も、関連する業界の切迫感とはうらはらに、普通の市民は醒めている。
どうしたら普通の市民が普通の意見を言える放送が実現するのだろうか。多チャンネル化を市民のメディア参加、メディア民主主義に結びつけられるのだろうか。
こうした問題意識から、アメリカのPACや、これらを運営する市民団体、それを支える環境や制度などを駆け足で調査、検証したわけだが、本書はその研究報告書(アメリカの市民とメディア調査団『アメリカの市民とメディア〜パブリック・アクセス・チャンネルの現況〜』エスエスプリント、1998)をもとに、さらに日本のケーブルテレビの歴史や現状、ビデオ制作者たちの運動の実情などを加え、日本での実際の課題としてまとめたものである。
デジタル化、多チャンネル化への急速な動きの中で、いったい電波は誰のものなのか、なぜ公共の電波がほとんど過剰な商業番組にしか使われないのか、どうしたら主権者が参加できる放送が実現するのか、放送を市民共有のものにしてゆくことに関心をもつ方々にぜひ読んでいただき、いくらかでも議論の素材にしてもらえればありがたいと思う。

書評 放送レポート 98年9月

いま映像メディアは多メディア化とともにデジタル化による多チャンネル化が急速に進みつつあるが、依然として一方通行型のメディアにとどまっているのが現状だ。こうした現状に対してアメリカでのパブリックアクセスの実態を紹介しながらテレビの足跡をたどり、メディアヘの市民参加の必要性を提起しているのが津田正夫・平塚千尋編『パブリックアクセス〜市民が作るメディア』である。
この本は編者ら7人によるパブリックアクセスの過去・現在、そして未来を模索したアンソロジーだが、アメリカの現状とともに、こうした活動を支えているNPO(非営利団体)を調査した結果、報告書を書き、それをもとに日本のケーブルテレビの歴史と現状を加え、まとめたものだという。
憲法第21条によって保障された言論表現の自由は個人が自由に自分の意見を言い、主張する権利をも保障している。だが、メディアを所有する者以外は、ほとんどその道が閉ざされているのが現状だ。ところが、アメリカではアクセス権という概念が生まれ、さらには1972年のFCCルールによってアクセス・チャンネルが義務づけられ、NPOによって広がっていった実態を問題点を交えながら紹介している。
一方、日本の場合、ケーブルテレビが登場した初期のころ、郡上八幡テレビ、下田テレビなどで市民参加の番組があったものの、73年に制定されたコントロールマインドむき出しの「有線テレビジョン放送法」によってその芽が摘みとられ、一部のケーブルテレビで細々とつづけられているのが現状である。編者たちが指摘するように国民性ということもあるだろうが、行政当局のスタンス、NPOという組織の在り方、言論表現の自由に対する考え方など様々な問題点は存在するものの、デジタル革命という変革期だからこそ日本でもパブリックアクセスを実現させる絶好のチャンスだといえる。これからのメディアの在り方を考える貴重なアンソロジーだ。