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抜粋 終わりなき《まえがき》

 この国の近代史における最も大きな転換は、これまで1945年8月15日の「敗戦」という区切りで語られてきた。しかしいまや、それに2011年3月11日の「大震災・福島第一原発事故」を付け加えなければならない。
 世界史的には「フクシマ以前/フクシマ以後」と呼ばれるかもしれない。
 世界最先進国と自負するこの国で起きた「原発事故」は、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故とは比較にならない衝撃を世界に与えた。絶対安全、事故など起こりえない、と豪語してきた日本という国の原発で起きた事故。世界が震撼したのは当然だろう。
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 「敗戦」は、この国のかたちを確かに変えた。軍国主義・天皇主義の抑圧国家が、占領軍の政策によってであったとはいえ、ともあれ民主主義国家へとかたちを変えたのだから、確かに大きな歴史の転換点であったことは間違いない。
 今回の凄まじい原発事故もまた、この国のかたちを変えるべき大きなファクターとなって当然だったはずだ。しかも今回は、他国からの強制ではなく、自らの選択としての変革でなければならなかった。この事故を機に、エネルギー政策という国家の根幹にかかわる政策の大転換が図られてしかるべきだった。国策として「脱原発」へ大きく舵を切ることは、あの過酷事故に脅えたわれわれ日本国民にとっては、あまりに当然の方向性だったはずなのだ。
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 しかし残念なことに、この国のかたちは事故からしばらく、さして変化の兆しを見せなかった。
 旧態依然、お上の言うことには逆らわない下々の民。情報やデータを独占し、どうせ理解できないのだから公表する必要もないとばかりに、隠蔽と改竄を繰り返す政府・官僚組織と電力会社。それを助長する学者とは名ばかりの腰巾着たち。広告費という莫大なカネで電力会社に絡め取られたマスメディア。間で蠢く広告代理店と称する情報商売人。
 それらによって動かされるこの国のかたちは、あの過酷事故の後も、ほとんど変わらないように見えていた。事故当事者の東京電力は、半年にわたって「事故原発の廃炉」に抵抗したし、かろうじて爆発を免れた福島第一原発5、6号機の再稼働すら目論んでいた。そしてそれを、政府も黙認していたのだ。ほとぼりが醒めれば、もとの状況に復帰するだろうと、彼らは高を括っていたに違いない。
しかし、そうは問屋が卸さなかった。
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 緩やかではあるが、この国のかたちは草の根から変わり始めている。2012年6月現在、どんな世論調査でも、原発再稼働に反対する意見が70%ほどにも達する。2011年秋ごろまでは、原発容認派が脱原発を上回るという調査もあった。ことに男性は容認5割、反対4割と「いのちよりも経済」意識が強かった。
 だが、2012年に入って、国民意識は劇的な変化を見せ始めた。少なくともこの国のエネルギー政策のかたちを、多くの人たちが変えようとし始めたのだ。
 その意識変化をもたらしたものは何だったか。
 大きな要因は、それまで何も言葉を発しなかった人たちの、「新しい言葉の獲得」だっただろう。ことに、若い人たちがブログやツイッター、フェイスブックなどのSNSを駆使して、網の目のようなネットワークを作り上げたことが大きかった。
 「ツイッター・デモ」という言葉が生まれた。誰かが「もう頭にきた。脱原発デモやろうぜぃ」とツイッターで呟く。それが瞬く間にリツイートされて、数千人もの人たちがまるで雲のように湧いて参集する。警察もマスメディアもまったくその動向を把握できない。
 把握できないマスメディアは、当然のごとく報道できない。いつまでたっても報道しないマスメディアに見切りをつけた人たちは、自分たちで情報を探り、さらに新しい情報を生み出してネットに送り込む。むろん、ネット情報は真偽さまざまだが、その中から取捨選択され検証された情報が、やがて人々の意識を変え始めていく。地域や職場で孤立していたルーツが、ネットという土壌を得て伸び始めた。草の根から、ついに花が開いたのである。
 「ママ・ネット」も大きな効果を発揮した。政府や電力会社の情報・データに疑問を抱いた若い母親たちが、すばやくネットワークを作り上げ、放射線量の測定などを行政に頼ることなく、独自に行ない始めた。子どもを思う母たちの行動が、「前例がない」「法令の定めがない」「国が認めない」「予算がない」などと渋る行政を突き動かしていったのだ。
 女性の「反原発意識」は男性の倍にも達していた。女性に引きずられるように、男性の意識も変化していった。これが、2012年に入ってからの、この国のかたちの変容である。
 まさに、人々の意志や行動が、政府を追いつめ始めているのだ。
 2012年5月5日、北海道泊原発3号機の定期検査入りでの停止を最後に、日本で稼働している原発はとりあえず「ゼロ」になった。
 それを、「単なる定検による停止であって、国民が止めたわけではない」と強弁する人たちもいる。だがそうではない。とりあえず、ではあれ「原発ゼロ」を実現したのは、他の原発の再稼働を阻止した多く人たちの声と力と行動だったのだ。いったん停止した原発が再稼働できなければ、いずれ「原発ゼロの日」がくる。
 デモであり、ツイッターやフェイスブックであり、座り込みやハンガーストライキであり、各地で毎日のように開かれている講演会や小さな学習会など、それら多様で緩やかな連帯の力だったのだ。
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 だが、この国のかたちを変えたくない人々も少なからず存在する。世の状況を見ながら雌伏はしていても、彼らはなお強大な権力を保持している。反対する人たちの声が小さくなったと判断すれば、すかさず巨大な姿で立ち現れてくる。
 財界という金力であり、政治という権力であり、官僚という組織であり、学者と称する名誉欲の塊であり、マスメディアの内部にいまだに巣食っている癒着者であり、それらすべてを包含する原子力ムラという薄汚れた集合体である。
 この国のかたちを少しでもまともな方向へ変えようとする人たちと、旧来のかたちに固執することによって自らの権力を温存しようと画策する人たちとの闘いは、いま始まったばかりである。
 だから、この本は「終わりなき始まり」の記録というしかない。

週刊金曜日 2012.07.13「本箱」

原発事故で「激しく揺さぶられ」web 連載を始めた著者。「2年たっても終われない。これは終わりの見えない終わりへ向けたメモだ」と記す。(小長光哲郎)

志村建世のブログ「多世代交流のブログ広場」2012.08.14

 「原発から見えたこの国のかたち」を読む[ 読書・評論 ]

「原発から見えたこの国のかたち」(鈴木耕・リベルタ出版・単行本)を読みました。ウェブ上の週刊誌「マガジン9」に連載したコラムをまとめたもので、著者はあとがきで「この本は、研究者でもジャーナリストでもない、普通の一市民の記録である。」と述べています。しかし著者は、れっきとした編集者でありライターです。言わば一市民の目線で継続的に原発問題を論評してきた集大成として「この国のかたち」が見えてきたレポートです。
 ですから大上段から原発問題を斬って見せるというよりも、昨年3月の「フクシマ」以来の私たちが経験してきた、恐怖と不安と疑問の連続から「この国はおかしい」と気づくに至る過程を、ほぼ忠実に再現しています。だからこそ、「原発マフィア」によって日本の統治と経済がいかに歪められ醜悪な形になっているかを、鮮やかに浮かび上がらせてくれるのです。
 内容は、1)原発さえなかったら、2)原発と想像力、3)原発はいらない20の理由、4)原発事故と被曝、5)原発マフィア、6)原発と政治家、7)原発とメデイア の7章からなっています。中でも原発はいらない20の理由は、私たちがこの一年半の間に、さまざまな経路で学んで現代の常識としてきたことの総決算と言えるものです。
 どこから見ても救いようのない誤算の産物である原子力発電を、いまだに産業の支柱と信じ込んでいる、あるいは信じ込ませたいと思っている人たちがいることは驚きですが、本人たちはそれほど深く「原発マフィア」に組み込まれ、その中で生きてきたのです。「フクシマ」の現実から目をそむけ、事故をなるべく小さく、できれば「なかった」と考えたいのは、本能的な反応に近いのでしょう。だから「原発の全廃は日本の集団自殺だ」などと言い出すのです。事実はその正反対で、原子力依存の推進こそが破綻へと突進する狂気の沙汰であるにもかかわらずです。
 あまりにも当事者だった人たちには、大きな枠組みを変えるような発想は難しいと考えるのが順当でしょう。ところが今の日本の政財界には、そうでない人が非常に少ないのですから、組織をいくらいじっても内容はあまり変りません。なにしろ国の根幹の形を変える話ですから、総取替えでもしない限り本当には変えられないでしょう。つまりは政治を変えるしかないのです。
 反・脱原発運動は、国民対政権の対立の構図に近づきつつあるように見えます。これは戦後日本の進路選択のやり直しであり、最大の政治課題なのです。私がこの本から読み取ったのは、そういうメッセージでした。

しんぶん赤旗 2012年8月26日「ほんだな」

 福島原発事故をめぐる政府東電、メディアの錯綜した動きとそのお粗末を、遠慮会釈ない視線でネット上につづった連載コラムです。この期に及んで「この国のかたち」を変えようとしない政府・官僚や電力会社・巨大企業は、「原発同様の経年劣化」だとばっさり。デモ、ツイッター…人々の多様で緩やかな連帯の力が政府を追いつめ始めていることに希望を見出します。

日刊ゲンダイ 2012年8月17日付「新刊アラカルト」

フクシマはこの国の「最高精密先端技術」の実態や、この国の政府・官僚組織が隠蔽と改竄を繰り返している現実などをあぶり出した。マスメディアも政府となれ合いの報道を行うばかりで、福島の「1万人大集会」や「原発いらない福島の女たち」の経産省前の抗議の座り込みもほとんど報道しなかった。ところが、ネット上での連絡や口コミから1000人を超える人が集まった。市民によるネットメディアに可能性を見い出しつつ、「週刊プレイボーイ」元編集長が憤りと共感をもって脱原発を呼びかける。

出版ニュース 2012年9月上旬号

この国のかたちは、「大震災・福島第一原発事故」以来、本当に変わったのか。著者は〈この国のかたちを少しでもまともな方向へ変えようとする人たちと、旧来のかたちに固執することによって自らの権力を温存しようと画策する人たちとの闘いは、いま始まったばかりである〉と、3月11日以降の原発をめぐる状況に自らのことばを対置する。本書は、ウェブマガジンの連載コラムをまとめたもので、「政・官・財・学・メディア・司法」による癒着の構造への怒りが伝わってくる。原発はいらない20の理由、原発事故と被曝、原発マフィアの正体など、一市民の立場からの問題提起は説得力に富む。

ブックウェーブ(日本点字図書館) 2012年9月号(No.150)
                     「今月の1冊」より

 今月とりあげるのは、『原発から見えたこの国のかたち』という本です。著者は鈴木耕さんで、この7月に出版されたばかりです。

 はじめに、この鈴木耕さんについて、簡単にご招介しましよう。
 鈴木さんは1945年、つまり敗戦の年に秋田県に生まれ、早稲田大学文学部を卒業して、出版社の集英社に入りました。そして、『月刊明星』『月刊プレイボーイ』などの編集部を経て、集英社文庫、『週刊プレイボーイ』『イミダス』などの編集長を歴任、さらに集英社新書の創刊に参加し、その編集部長を務めたあと、2006年に退社されました。その後は、プリーの編集者およびライターとして活躍されています。

 さて、この本のテーマは、原子力発電、いわゆる原発です。いうまでもなく、昨年3月11日に東北地方を襲った東日本大震災は、「想定外」といわれる巨大な津波による被害を含めて2万人に近い死者・行方不明者を出しましたが、同時に、福島県にある東京電力福島第一原発の大きな事故をもたらしました。そして、かつてない規模で放射能汚染が広がるなか、原発の周辺に住んでいた多くの人々が故郷を離れざるをえず、今も16万人もの人が避難生活を強いられています。また、放射能による大気や水などの汚染という恐怖は、福島県や東北地方にとどまらず、日本中の人々に、野菜や魚など食品への不安をもたらし、特に影響を受けやすいとされる、幼い子を持つ親たちを心配させています。
 そんな中で、こんなに地震の多い日本という国に、原発が54基も存在してきたことについて、根本的に疑問を抱く人々が増えてきました。実は、私自身も、その1人です。原発というものに、ある程度の不安や疑問はもっていましたが、まさかこんな大事故が日本で起きるなどとは予想もしていなかったのです。けれども、この間の報道に接し、また本を読んだりするにつれて、この国のエネルギー政策は大きく転換していくべきではないか、と思うに至ったというわけです。

 そんな私にとって、この問題についての考え方を整理する上で参考になったのが、この本でした。この本は、全体が7章に分かれています。
 まず、導入部にあたる第1章では、福島第一原発から約50キロ離れた集落で約40頭の乳牛を飼っていた50代の酪農家が、自宅周辺を放射性物質で汚染されるなかで仕事をする気力をなくし、自殺したという例が紹介されます。遺された遺書に「原発さえなければ」とあるのを引きながら、著者の鈴木さんは「この死は、明らかに国策の犠牲だ。原発がこの人を殺したのだ」と憤るのです。
 けれども、無数の被災者や犠牲者を生んだあの大事故のあとでも、やはり原発は必要だ、と主張する人が少なくないのも確かです。では、この問題を考える上で、何が大事なのか。鈴木さんは「想像力」を働かせることの重要性を、続く第2章で述べます。その箇所を、少し読んでみましょぅ。

「原発を全て止めてしまったら、日本の経済力は激減し、国際競争力もなくなってしまう。それでもいいのか。日本国をどうする気なんだ」と居丈高なのが、再稼働論者の決まり文句だ。
 でもねえ、経済も国際競争も、普通に生きていけるからこその話じやないかと、僕は思うんだよ。健康を損ね、病に苦しんでもなお、経済力が大事だとでも言うんだろうか。僕にはそこんところが、どうしても理解できないんだ…。

 こんな具合に、ややくだけた調子で、鈴木さんは大事なポイントを指摘しているのです。
 さて、第3章については後回しにして、先へ進みます。第4章、第5章では、いわゆる原子力ムラというものについて、特に学者たちの発言をとりあげながら考えます。事故によって放出・流出した大量の放射性物質が及ぼす健康への影響について、日本の専門家の中に「この程度の放射線量ならば、心配いらない」と極端なまでの安全神話をふりまく人々が存在し、ある人などは、講演の中で「放射線の影響は、実はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨしている人に来ます」などと非科学的なことを語っているのです。けれども、鈴木さんによれば、1986年のチエルノブイリ原発事故では、その後、少なくとも数万人が癌などで死亡した、とする説が有力なのだそうです。
 そして、このような学者たちと政治家、官僚、財界人、さらにメディア関係者を含む五角形のつながり、すなわち「ペンタゴン」こそが、原子力ムラを形成し、日本の原発政策を推し進めてきた、というわけです。
 また、言葉を吟味する鋭い感覚が発揮されているのも、この本の魅力です。例えば、昨年末に野田首相が「福島原発事故『収束』宣言」をした際、多くの人が疑問を抱きましたね。けれども、鈴木さんは、単に「収束などしていない」と見るだけでなく、首相がその根拠として用いた「冷温停止状態」という言葉がクセモノだ、と見抜きます。さすがに「冷温停止」とは言えないため、「状態」をくっつけて、あたかも事故収束に成功したような印象を与える紛らわしい表現にしたのだ、と推測するのです。
 この1月に政府が「原則として、原発の運転期間を40年に制限する」と発表したことに対しても、疑念を表明します。冒頭に「原則として」とあるのは、今後「例外」を可能にするための伏線ではないのか、というわけです。
もう1つ挙げるなら、「除染という言葉です。これは放射性物質をなくすことなどではなく、ある場所から別の場所へ、単に移すだけに過ぎず、その意味では「移動」の「移」を用いて「移染」と呼ぶべきものだ、というわけです。これらの指摘に、私はどれもハッとさせられました。
 このあとの第6章では、主として政界の動きがとりあげられ、与党・民主党の中で原発についての意見は四分五裂状態であること、その中で、ある幹部からは「原発を動かさないことになれば、日本が集団自殺するようなものだ」といった暴言まで飛び出したことなどについて、嘆きや怒りが語られます。
 そして、最後の第7章は「原発とメディア」と題されています。ここでは、昨年9月に鉢呂吉雄経済産業大臣を辞任に追い込んだ新聞・テレビなどの報道がやり玉に挙げられ、特に、記者会見で原発事故の被災地を「死の町」と語ったことに対し一斉に騒ぎ立てたことへの疑問が述べられます。
もちろん、被災者の中にはこの「死の町」という言い方を不快に思った人もいるでしょうが、他方で「たしかに、もう帰ることのできない『死の町』かもしれないなあ」と思った人もいるかもしれません。そして何よりも、メディアのやるべきことは、こういう言葉尻をとらえた大騒ぎでなく、その「死の町」をつくつた者たちの責任を追及することではないか、というわけで、私も全く同感です。
 この最終章は、既存のメディア、すなわち大新聞やテレビ報道への疑問や批判とともに、新しいネットメディアやフリージャーナリストたちの活躍に対する期待も述べて結ばれています。

 ところで、先ほど後回しにして残しておいた第3章に触れましょう。この章には「原発はいらない20の理由」というタイトルが付いています。そして、その通り20の節に分けられて、鈴木さんが「原発は必要ない」と考える理由が「これでもか」と言わんばかりに並んでいるのです。この本の大きな特徴だといえるでしよう。
 それらすべてをご紹介する時間はありませんので、その中から3つだけ挙げておきます。
 1つは、原発が地域社会をズタズタに引き裂くということ。計画が持ち込まれた町や村では、電力会社の札束に群がる土建業者らと美しい自然を守りたい人々の間に対立が生まれ、それが激化していく、というケースが多いのです。
 2つ目は、原発に代わる代替エネルギーは、太陽光、地熱その他、たくさんある、ということ。環境省でさえ、風力発電の潜在的可能性は「原発40基分に相当する」と、昨年、発表しているそうです。
 3つ目は、これまで言われてきた「原発は安い」という理屈は、いまや破綻している、ということ。たしかに、福島の大事故の補償や賠償のことを考えれば、それは、私のような素人にも、すぐに分かります。いや、そもそも、住み慣れた故郷や家を捨てなければならなくなった人への補償額など、いつたい誰に計算できるのでしようか。

 あの大事故から1年半、いろいろな出来事があり、いろいろな議論がありました。けれども、世の中の動きが速いせいか、私などは、つい最近のことでさえ、次々に忘れていきます。そんな私にとつて、この本は、これまでの経緯を振り返り、考えるべきポイントを知る上で、とても有益でした。この原発問題についての意見は、人それぞれかとも思いますが、さて、皆さんは、どうお考えでしょうか。
                         (坂巻克巳)

週刊新潮 2012年9月27日号 「十行本棚」

 原発問題の異色評論集だ。研究者でもジャーナリストでもない、「普通の市民」による反骨の記録である。新聞記事を精査しながら、政治家、企業、学者、マスコミの罪をじわりと突いていく。等身大の不安、憤り、絶望、それでも諦めない姿勢が共感を呼ぶ。

ジャーナリスト 2012年9月25日号

 国民の命を危険に晒すことさえためらわない
 原子力ムラの利権

 1979年のスリーマイル原子力発電所事故当時より、原発の危険性を訴え続けながら、ときに黙殺され、ときに批判にさえならない悪罵を投げつけられてきた著者の、福島原発事故後の心境はいかばかりであろうか。
本書の冒頭には、原発事故によって生活を根こそぎにされた人、生きる気力を失い、自ら命を絶ってしまった人の心情に寄り添う著者の姿があった。
 著者は深く悲しみ、心底怒る。原発に対する激しい感情は、論理立った言葉へと転化し、原発が人類とは決して相容れるものではないことを明らかにしていく。危険極まりない代物ゆえにというだけではない。経済的に見ても、その開発・維持には、とてつもなく膨大なコストがかかり、その金(原発マネー)に政治家、官僚、財界人、学者、マスコミらが群がってくる。その複雑怪奇な構造を、著者は丁寧な語りで解体していくのである。
 それを通して見えてくるのは、これまで巧妙に隠されてきた日本という国のかたちだ。エスタブリッシュメントの利権を守るためには、「国民の命を危険に晒すことさえ躊躇わない国家」と言い換えてもいい。
 原子力の専門家と称する人々の間(原子力ムラ)でしか通じない話法に対するアンチテーゼかもしれない。著者は徹底して市井の言葉を紡ぐ。そこでふと地の文章が顔を出すところも捨てがたいが、それを面白がってばかりもいられない。本書は、原発事政後も何もなかったかのごとく、3・11以前の日本を続けようとする指導者層に向けた、著者の全人格をかけた闘いなのである。
                       芳地隆之(作家)

図書新聞 2012年11月10日(第3085号)

 原発マフィア、原子力村への一市民の告発状
  あきらめずにおかしなことを「おかしい」と言い続ける
  持続力が、日本社会を揺り動かす力に成長しつつある

                          山田宏明

 昨年3月11日に起きた東京電力福島第一原発の事故以降の日本の政治状況、社会の混迷と閉塞感は限界に達しつつあるように見える。原発の危険性、放射能汚染の現況、内部被曝の実態などについて、ウソにウソを重ねる当局者の説明に、誰もが、何を信じていいのか分からなくなっており、あまりにも世間常識と隔絶した東京電力などの「隠蔽体質」「秘密主義」は、「これが21世紀の企業なのか」と嘆くしかない。「原子力村」の閉鎖的で、身内かばいの体質、言い逃れと責任回避だけを目的とする「東大話法」も、「これが東大など一流大学で学んだ学者のやることか」と呆れ果てるしかない。戦後民主主義の美名の下に隠蔽されていた「恥部」が一気に露呈したという意味でも、この原発事故は、逆説的には「画期的な出来事」であったわけだ。
 こうした「福島原発事故が暴いたこの国の歪み」を追及する本も多数、出ていて、どれも読後感は重苦しいが、「愚かではあっても惹起した"醜い現実"」から目を背ける訳にはいかない。背ければ、また福島のような事故が起きてしまうからだ。
 東北(秋田県)に生まれ、長年、集英社で雑誌、新書などの編集に携わってきた著者は、2010年5月から、ウェブ上の「マガジン9」というネット週刊誌で「時々お散歩日記」というコラムを書き始める。気楽な随筆のつもりが、11年3・11以降、原発事故の衝撃に、ほぼ、原発事故問題一本やりのコラムとなっている。2011年5月までのコラム記事は既に「反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな」というタイトルで刊行されており、本書はそれ以降の同コラムの文章を集大成した。
 11年6月に自殺した福島の酪農農家の経営者の男性(54)の「原発さえなければと思います」という悲痛な遺書と、同年7月にやはり「私はお墓にひなんします」という遺書を残して自殺した93歳の南相馬市のお婆さんのケースの紹介から始まり、全編に、被災者、被害者、国民のことを「歯牙にもかけず原発再稼動に突進する政治家と官僚への強い怒りが溢れている。
 ずっと、雑誌ジャーナリズム、出版の世界に身をおいて仕事をしてきた著者だけに、新聞、テレビなどのマスメディアの報道姿勢にも、鋭い批判の目が向けられており、例えば11年10月30日に福島市で開かれた1万人参加の脱原発集会の模様を毎日新聞がたった26行しか報道しなかった点について、「地方都市で、1万人もが参加する集会が開かれたのは、沖縄を除けば、前代未聞なのに、どういうつもりだろう」と呆れている。
 そして、元学生運動経験者ながら、原発再稼動に向けて"狂奔"し、原発反対派に対して挑発的な言動を重ねている民主党の仙谷由人・政調会長代理については、「閣僚でもないのに、再稼動を巡る閣僚会議に毎回、出席、ごちゃごちゃ言う奴はいるが―」という東京新聞の記事を引用して、「いったい何様のつもりなのだろう」と怒りを顕わにする。「原発を一切、動かさないならば、ある意味、日本が集団自殺するようなものだ」という仙谷氏の講演での発言については「脅迫もここまで来れば、りっばなものだ」となで切っている。
 日本の経済、地域社会に前例のないダメージを与えたこの事故に、警察・検察がいっこうに当事者の東電幹部の刑事責任を問う捜査に着手しないことにも強い疑念を表明し、「元検察幹部らが、東電の子会社に監査役などとして再就職しているからではないか」と指摘している。
 こうした著者の怒りを共有する市民が、特に政府によって6月上旬の政府の関西電力大飯原発(福井県)の再稼動を強行されたことで、直接行動による抗議に立ち上がり、毎週金曜夜に、永田町の首相官邸前や国会正門前に10万人を超える規模で集まり続けている。知らんフリを決め込んでいた野田首相も、「この運動のリーダーと会いたい」と言い出し、全く報道しようとしなかった新聞、テレビも渋々取り上げるようになった。原発問題は政局のカギになりつつあり、60年安保、70年全共闘運動以来、絶えて久しかった「大衆の街頭での直接抗議行動」は、もう数ヶ月も持続している。
 著者のように、あきらめずにおかしなことを「おかしい」と言い続ける持続力が、日本社会を揺り動かす力に成長しつつあるのだ。「おかしなこと」への怒りの集大成として貴重なクロニクルだ。
                          (評論家)

 奔流(千曲川・信濃川復権の会)No.17(2015年10月30日)

「原発さえなかったら…」福島県相馬市の酪農家で、自殺した男性の書き置きの一部である。いったい何人の人々がこの言葉を発したのだろう。
 原発事故関連死者数は2014年9月現在で1100人を超えた。そんな殺人兵器をこの国はまだ稼働させようとしている。「収束宣言」などの巧みな言葉で私たちは騙されてはならない。
 本書では、各新聞で報道された記事を元にした記述が多い。特に印象に残った部分は「子どもの甲状腺被曝」である。子どもの45%が被曝しているのに「問題ない」と言い切る政府担当者。この国は果たして国民を守ってくれるのか、疑問を抱いてしまった。
 原発一つ作るのも廃炉にするのも、何十年という月日が必要だ。これ以上悲惨な思いをする人を増やさないために、若い世代の私たちがやるべきことは何であろうか。今一度考えるべき重大な問題であると私は思う。
                      押見寧々(大学生)