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抜粋 プロローク:「石棺」にたたずむ

 例のクーデターがもちあがったときには、ああこれでソビエト行きはオジャンだなと9分どおりあきらめました。騒ぎは3日でおさまったけれども、ロシアの天地は麻のごとく乱れておるであろうと私の周囲の誰もが思っていたし、決して行くなと真顔で忠告してくれる親切な人もいたのです。しかし行くなと言われればなおのこと行きたくなる心理というのもあって、体裁よくいえば知的好奇心、有体にいってしまえば弥次馬根性は大いに掻き立てられました。結局予定どおり訪ソの実現となったのは、私同様、猫のような好奇心の持ち主がメンバーに多かったからにちがいありません。
 今回の調査のメインはチェルノブイリ原発そのものを目のあたりにすること、あわせて被災地の住民の状況、それに医師・科学者たちの奮闘ぶりに接してみることでした。期待を上回る成果を収めることができたと私は感じています。私自身は社会科学者ですから、事故そのものよりも事故をとりまく社会環境に興味があります。クーデター騒ぎの直後(1991年9月16日〜25日)のソ連が果たしてどんな動静の下にあるものか、興味津津たるものがありました。
 初めてソ連社会を垣間見た印象から述べれば、まことにおおまかな国、という一語につきます。国土の広大なこともさることながら、生活様式や人心の働き具合まで、さながら中年ロシア女性のごとくおおぶりにできているようです。遮断機が下りているのに「通れ通れ」と促す踏切番、ルーブリ紙幣の束を受け取ってロクに数えようともしない土産物屋、軽油をバシャバシャこぼしながら発進するトラック―共産主義、官僚主義といった言葉からは何もかも型にはまった固いイメージが浮かんできますが、そのへんはわが日本のほうがよっぽど規律本位の国柄と見えました。もう1つの印象は、ソ連は暗い国だということです。よほど暗くならぬと部屋の電灯をつけません。レストランも昼は無灯火です。ホテルの部屋はあちこち電球が外してあったりします。昔からこれがあたりまえなのかそれとも意識的な省エネなのかはわかりません。しかし数日たつうちにこっちも慣れてしまって、成田に帰着したさいにかえってそのあまりの明るさに目のくらむ思いをしたものです。どうやら異常なのは日本のほうです。
 ところでモスクワのホテル・コスモスに到着してまず驚いたのは、メインロビーのソファーが破れたまま放置してあること、それにロビーを公然と娼婦が徘徊していることです。排気ガスで街の空気が汚れきっているのにも閉口しました。私たちの乗った外国人用の観光バスのフロントガラスにはヒビが入っています。便所の汚いことは噂のとおりでした。いちばん象徴的だったのはキエフの街の風景で、歩道のあちこちに板屋根が設けられています。これは、沿道の建物(古い素敵な石造建築です)が老朽化して崩壊しつつあり、通行人がケガをしないように保護しているわけなのです。要するに「古いものが作られたときのまんまひたすら古くなっている」という印象で、ホテルのソファーから始まってメインテナンスというものがおよそできておらんのです。このへんのところが原発の事故と無関係ではあるまいと思われます。
 さてモスクワでの最初の訪問先は「X線放射線学研究所」で、ここでは「レクヴィダートル」という言葉を覚えました。除染作業従事者という意味で、事故後現場に駆けつけて消火等にあたった人々のことです。60万人にのぼると言われています。この言嚢は日本での「ヒバクシャ」と同じような意味合いでいま旧ソ連で使われているということです。またそこでは放射性セシウムの汚染地図を示されました。汚染地域が広大な面積に、しかもきわめて不規則な形状で広がっています。原発事故の放射能汚染は、事故の態様と気象条件しだいで、まったく予想もつかないような形で広がっていくことを一目瞭然に示している図です。
 キエフでは、まず「母性保護研究所付属小児病院」を訪れ、女医さんたちの話を聞きました。指摘されたのは新生児の出生率の減少、奇形をもって生まれる子どもの増大、また甲状腺疾患の増大です。白血病については「これからふえるという悲しい見通しがある」ということでした。同じくキエフの「全ソ放射線医学研究センター」では共和国の前保健大臣らと会いました。いわゆる被災者の範囲がレクヴィダートル60万人、プリピャチおよび30キロ圏内の移住者11・6万人、高汚染地域に現在も住んでいる人々128八万人、以上の両親から生まれた子どもたち1万人、合計約200万人とされていることを知りました。ウクライナでは当年中にさらに6万6000人の移住を計画しているといいますし、ベラルーシ(当時のベロルシア)ではもっと多くの人々の移住が必要なはずだそうです。事故の経験をふまえて、現在運転中の原発から30キロ圏内にはヨウドカリ剤が用意されているという話があったことも記憶されるべきでしょう(30キロという数字に科学的な根拠があるとは思えませんが)。
 キエフから約130キロの地点にチェルノブイリ原発はあります。30キロゾーンのゲートに到着したときは「いよいよ来たか」とさすがに緊張しました。そこからは発電所のバスに乗り換えて進みます。途中、遠くにこんもりとした地面があるのを指差して、案内人は「墓場だ」と言います。このへんにあった集落の建物を全部こわして埋めたのだそうです。そうしないと老人たちが規制を無視して舞い戻ってしまうのです。
 チェルノブイリ原発は建物の長さが1キロメートルという巨大な発電所です。あかりをつけないで済ませるソ連流の設計なのか、1・2号機のタービン建屋は驚くべきことに壁面ガラス張りでした。石を1つぶつければ気密がこわれるわけです。エアコンも直接外気を大きなファンで吸引しているだけ。建屋内の様子はさながら町工場を大型化したようなもので、大小の部品類が床に無造作に置かれ、通路にはバケツがあって雨漏りに対処している始末です。消火栓もありましたが、そこらの街のそれと少しもかわりません(私たちが帰国して1か月もたたない10月11日に2号機のタービン建屋で大きな火災が起こり、天井が無残に焼け落ちてしまいました)。この原発は1992年いっぱいで廃止になることが共和国によって決まっており、従業員たちの目下の最大関心事は再就職問題であるようです。「どうせあと少しだ、雨漏りくらいはほっとけ」という心理が支配しているとすれば少々剣呑です。
 3号機のどんづまり、事故現場と厚さ6メートルの壁ひとつ隔てたところにメモリアルがありました。モニュメントだらけのソ連ですが、小さいながら私にとっては最も印象に残るモニュメントです。現場から救出できず遺体を埋めこまれてしまった運転員を記念したものです。急性障害を負って死亡した人は30名ということになっており、27人はモスクワ第6病院で、1人はキエフ、1人はプリビヤチ、そしてあとの1人がその現場に眠っている人です。
 事故炉の外観は「石棺」というより巨大な「鉄棺」です。私たちは200メートルの距離の地点に立ちましたが、放射線の強さは日本の約200倍です。積算線量計の数字がすごい勢いで上がっていきます。「5分間以上バスから出るな」と言われました。つぎにその足で、原発従業員用につくられた団地プリピヤチに行きました。ラジオ放送のスピーカーの音が空しく流れる無人の街はいかにも不気味です。アパートを覗くと、大きな家具やピアノなどは放置したまま、あわただしく避難した跡が目に入って釆ますし、幼稚園などはベッドのフトンや枕まで当時のままにしてありその生々しさに胸を突かれます。
 さて翌日私たちは半日かけてベラルーシの地方都市ゴーメリに向かいました。ここは全体がスッポリ汚染地域に入っています。現場からの直線距離はおよそ130キロです。「ゴーメリ地区衛生疫学センター」では食物の放射能汚染の検査に精力を注いでいました。しかし使っている装置はまだまだ旧式のもののようです。ゴーメリばかりでなくどの地域でも、病院その他で被災者救援や汚染対策に従事している医師・科学者などの奮闘ぶりには心を打たれます。それだけに「1カペイカでも援助がほしい」「西側の支援なしには何もできない」といった声に何とか答えたい思いにとらわれます。
 ゴーメリの郊外にヴェトカという村があります。高汚染区域で、住民は移住させられています。私たちはその無人の村を訪れました。農家はすっかり荒れ果て、床は腐って抜け落ちてしまっています。現場から100キロ以上離れた場所でプリピャチと同じ光景が生まれているのです。さてバスを走らせているうちに、道に面して老婦人の1人坐っている姿が目に入り、慌てて私たちはバスを降りました。この85歳のおばあさんとしばらく話していると、その息子なる人物が家の中から現われました。20人ほどの居残り組がいるとのことで、なるほどやがてあっちから1人、こっちからまた1人といった具合に老人たちがものめずらしそうに集まってきます。そのうちに青いトラックが1台入ってて来ました。住人たちにきれいな食物を週2回運んでくる車だそうです。このヴェトカ村が高度に汚染されていることが住民に知らされたのは事故後じつに2年を経過したあとでした。それまで人々は何も知らずに土地のものを食べていたのです。しかし、私たちがミンスクの気象台で確かめ、えたところでは、当局は事故の2か月後には最初の汚染地図を作成していたのです。この情報が秘密にされたため、被害は大きくなってしまったわけです。チェルノブイリ事故の経験がソ連のグラースノスチ(情報公開)に拍車をかけたと言われるゆえんもわかる気がします。
 被害の大きさの評価について(したがって、事故の被害は軽微だったとするIAEA=国際原子力機関報告の受けとめ方についても)立場により微妙な差がうかがわれたのは興味深いことでした。今度のウクライナの事故で最も被害の大きかったのは隣りのベラルーシですが、そのベラルーシの首都ミンスクの「科学アカデミー放射線生物学研究所」では、被災地で飼育した動物を使った継続的な実験により、時の経過にしたがって内分泌機能が昂進から低下に転じたり、免疫系統に大きな変化が生じたりといった事実が発見されたという話を聞きました。一時点での調査にとどまるIAEA報告への痛烈な批判です。他方で、急性放射線障害の患者が多数かつぎ込まれたモスクワ第6病院の医師は、IAEA報告を大いに持ち上げ、被害の大きさを誇張するジャーナリズムは被災者や被災地住民の不安をいたずらに増幅するうえに、偏見を助長して患者の社会復帰を妨げるだけだと憤慨してみせました。被災者の生活や将来をおもんぱかる立場からは、なるほどそういう面が強調されるのだなと納得されました。
 今回の訪ソを通じて感じられたことをまとめてみましょう。第1は、原発事故の被災のスケールがいかに巨大でありしかも測りがたいものであるかということです。移住や避難も、逃げる先があればこその話で、日本では逃げようにも逃げ場などありはしません。第2に事故の被害の大きさが判明するのはこれからだということです。というより、この事故の被害の大きさを正確に評価することは永久に不可能であるといったほうが正しいでしょう。放射能災害の特異な点です。第3は情報公開の重要性で、これは前述のヴェトカの事例が証明しています。第4に、大事故を未然に防ぐことができるとすればそれは何よりも住民の日常不断の監視のたまものとしてしかないだろうという点です。ソ連はその面で決定的弱さがあったのではないかと思われます。このことに、私たちは今回の事故の最大の教訓を見るべきでしょう。

1993年10月ウクライナ最高会議はチェルノブイリ原発の閉鎖計画の撤回を決定しました。大差の議決だったそうです。チェルノブイリを停めれば、ウクライナはこの冬を乗り切れないというのです。私たち日本人の記憶からあの事故は日々にうすれていっていますが、旧ソ連の人々にとって「チェルノブイリ」はまさに目の前の現実なのです。
 原子力の安全確保は、科学技術の問題であると同時に一個の社会問題であることを、旧ソ連の経験は私たちに教えています。炉型が異なるから日本ではあのような事故は起こらない、という言い方は、そうした側面を無視するものでしょう。わが国で幸いにしてこれまで悲惨な事故が発生していない第一の理由を、この国の技術者の優秀さや原子力行政の水準の高さに求めることはできないと私は思っています。原子炉の最大の安全装置になっているのは、原子力政策にたいする国内外の強い批判勢力の存在にほかなりません。
 たった1回の「誰も死ななかった」事故が、日本ではどれだけの波紋を社会に投げかけるか、福島第2原発3号機の事例〔1989年1月〕がそのことをまざまざと示しています。