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抜粋 まえがき

―ひとつの死を考えることから―

東海村のウラン燃料加工工場の事故で大量に放射線を浴びた大内久さんが、1999年12月21日、亡くなりました。この、1人の作業員の死のもつ意味について考えることから出発してみたいと思います。
日本で最初の発電用原子炉JPDRが完成したのは1963年10月です。以来37年近い歳月が経過し、今では52基におよぶ原発がこの国で稼動しています。亡くなった大内さんは、この37年ばかりの日本の原子力発電の歴史上、はじめての放射線事故による犠牲者だとされています。しかし、原発にかかわる作業中の被曝が原因で労働者が亡くなった例は、すでにいくつもあるというべきかもしれません。
被曝をともなう労働に従事して白血病にかかり、労災保険の適用が認められたケースがこれまでに4件あります。もっとも労働省は、「被曝の総量が、5ミリシーベルトに作業従事年数を掛けた数値を上回り、しかも作業に従事し始めてから1年以降に発病したもの」との条件に当てはまる場合には労災認定をするという方針で臨んでおり、電力会社は、労災が認められたからといって被曝労働と病気との因果関係が証明されたことにはならないと主張しています。(嶋橋美智子『息子はなぜ白血病で死んだのか』技術と人間、1999年、参照)。
いずれにせよ、放射線の放出をともなう「事故」が直接の原因で死亡者が出たのは、今回がはじめてです。
37年間で1名の死亡事故、と聞くと、これは原子力発電の危険性よりもむしろ安全性を物語る数字ではないかとの声さえ上がりそうです。じっさい、交通事故で毎日30人もの人が亡くなっていますし(1年につき1万人として37年間で37万人!)、喫煙が誘引となった肺ガンの死亡者も、調べれば年間で万単位にのぼるかもしれません。「原発で人の死ぬ確率は天文学的に小さい」と言っても、あながちデタラメとは決めつけられないようにも見えます。原子力発電の推進論者の中には、口には出さなくとも内心でそう思っている人が少なくないのではないでしょうか。
けれども、人の死の重みには数字で測れないものがあります。規則違反の作業手順で仕事をさせられ、致死量の放射線を浴びるという「異常な死にかた」には、普通の死とは異なる社会的な意味があります。それは、1954年の3月、ビキニ環礁でおこなわれたアメリカの水爆実験でばらまかれた死の灰を浴び、9月に亡くなった第5福竜丸の久保山愛吉さんの死に通じるものがあります。久保山さんの死去を伝える当時の新聞には、つぎのように書かれています(朝日新聞、1954年9月24日夕刊)。
「1人の庶民の死がこんなにも多数の眼に見守られたことがあったろうか。それは、罪なき一命を無惨にも奪い去ったあの『死の灰』に対する激しい怒りと抗議の眼である。」
第5福竜丸の遭難を、単に「運が悪かった」といって片づける人はいないでしょう。久保山さんの被曝死が、核兵器による「恐怖の均衡」の是非を問う象徴的な死であったのとちょうど同じように、大内さんの被曝死も、原子力発電の行方について日本国民に深刻な問いを投げかける象徴的な死であったと思います。なぜかといえば、大内さんの事故死は、単なる現場のミステイクにその原因を求めることのできない、もっと「構造的な」性質のものだと考えられるからです。
久保山愛吉さんの死が、原水爆禁止を求める巨大な国民的運動のきっかけになったことはよく知られています。そのことは、1人の漁船乗組員の死の社会的な意味を、人々がそのように受けとめたということを語っています。大内久さんの死がもつ社会的な意味についても、私たちはよくよく考えてみる必要があります。彼の死を無駄にしないための、それが私たちの務めでありましょう。
東海村の臨界事故は、死亡した大内さんにだけでなく、日本国民全体にとって1つの「異常な体験」でした。「目に見えない放射線が、いまこの瞬間も私の身体を貫いているかもしれない」、「いま吸い込んだ空気に、放射能が含まれていたかもしれない」、そう思いながらまんじりともせずに夜を明かした東海村の住民が少なくなかったはずです。多くの日本人が、テレビなどを通じてそうした異常な体験を共有しました。結果論としては「過剰な反応だった」という主張がたとえ当たっているとしても、この国民的体験の意味するものはきわめて重要です。日本国民は歴史上はじめて、集団として、原子力発電を「肌身に感じた」といえるだろうからです。
原子力発電は、日本の電力供給の3割以上をまかなっていますから、もはや私たちにとって日常的な存在であるはずです。しかし今回の東海村の事故は、原子力発電と日常的に共存している私たち自身のほんとうの姿を、意外な場所で、ふいに思い出させるような形で勃発しました。原子力発電所以外の場所で、あのような放射線・放射能事故が起こりうるというのは、普通の国民にとっては思いもよらぬことでした。また、あの事故についてはバケツが象徴的な存在となって記憶に残りました。ウランの溶液をバケツに入れて注ぎ込むといった思いがけない現場の光景は、原子力についての常識の裏をかくもので、私たちはすっかり不意打ちを食らった恰好です。
思い出してみましょう。1986年4月に、旧ソ連のチェルノブイリ原発で大事故が起こったとき、当初その原因とされたのは現場の運転員の規則違反でした。「常識では考えられないマニュアル無視だ」といって、電力会社や政府は驚いてみせ、日本ではありえないミスだと決めつけたものです。しかし今回の東海村の「バケツ事故」で、私たちはもう旧ソ連を笑う資格を失いました。政府などは今度もまた、「常識では考えられないマニュアル無視だ」と現場に主要な責任を押しつけるにちがいありませんが、チェルノブイリ事故が旧ソ連社会のかかえる矛盾の必然的な帰結だったのと同じように、東海村の事故もまた、単なる偶然の出来事ですまされるべきものではありません。
この書物は、今度のJCO事故を考えることを契機に、わが国の原子力政策のあり方をいろいろな角度から検討してみようというものです。そのさい、以下の3点に主眼を置いて書き進めたいと思っています。
第1に、今回のJCO事故の冷静な評価と位置づけを行なうことです。原子力発電が政治的に論じられる傾向のある日本では、原子力事故も往々にして政治的に扱われがちで、これは好ましくないことです。私たちは、事故の重大性をいたずらに叫びたてるのではなく、冷静に、科学的にこれを検証する必要があります。そしてそのためには、原子力発電や放射線についての最低限の知識をもたなければなりません。私たちは今回の事故を、放射能や放射線に関するミニマムの知識を学ぶ絶好の機会にしなければならないでしょう。
第2に、「原子力発電と正しく向き合うために」事故の教訓をどう受けとめるかということです。今回の事故に意表を突かれアタフタした恰好の私たち国民は、結局、これまで原子力と正面切って向き合ってこなかった、そのように仕向けられてきたのだ、とはいえないでしょうか。これを苦い教訓として、私たちはあらためて原子力発電および核燃料サイクルの問題を真っ向から考えるようにしなければなりません。別の言い方をすれば、JCOの事故を原子力発電システム全体の中に置いてとらえ、電力を現に大量に消費している私たち自身の生き方との関係で受けとめるということです。
第3に、これは私ども執筆者の課題といえましょうが、本書を「専門家と素人の関係の正しいあり方」を模索する契機にしたいと思っています。原子力発電は一つの科学技術ですから、これを専門的なレベルで論じようとすると、素人にはとっつきにくい用語を多用しなければならなくなります。かといってその道の専門家が素人にわかりやすく噛んで含めるように説いて聞かせるような場合、人を小馬鹿にしたような物言いをすることになりがちで、いずれにせよ専門家と素人との一種の断絶がそこには生じやすいものです。
本書の執筆者である清水・野口は、平生から、市民的立場から科学の振興に寄与したいと願ってNGO(日本科学者会議)活動に従事してきました。また野口が放射線防護学の専門家であるのに対し、清水は社会科学の研究者であってこの分野では素人同然という「絶妙な」取り合わせになっています。わかりにくいと言われる原子力発電について、誰にでもわかる言葉で、興味をかき立てながら、しかももちろん正確を期しつつ論じるのはなかなか容易な仕事ではありませんけれども、あえてそれに挑戦してみたいと思います。