レビュー ジャーナリストとして生きる
    
(JCJ50周年記念出版) 05年12月刊行

砂漠での国際連帯、真夜中の大ボラ
                          出版部会 田悟恒雄


国際ジャーナリスト機構(IOJ)というのがあった。ジャーナリスト組合の国際組織といった性格のもので、そこに加盟していたJCJは、どちらかといえば異質のメンバーであった。
89年7月、モンゴルのウランバートルで開催されたIOJ会議に参加させていただいた。ソ連でペレストロイカが本格始動する一方、中国では天安門事件の興奮がまださめやらぬ頃だった。
各国のメディア状況ということで、当方は、前年秋から半年間続いた昭和末期の「Xデーフィーバー」について報告した。発言の最中、熱心にメモをとる日本人風オブザーバーがいるのに気づいた。あとで知ったのだが、モンゴル駐在日本大使館の3等書記官氏だった。
翌日、件の男が近寄ってきて、特命全権大使閣下が大使館に招待したいと言っているという。断わる理由もなかろうと受けたのだが、しばらくして気がついた。「はは〜ん、狙いは共同か」。会議には、共同通信の編集委員氏が取材を兼ねて参加していたのだ。
というわけで、夕刻、編集委員氏と大使館を訪ねると、よほど人恋しかったのだろう、大使夫妻が大歓迎。海は遠いというのに、なぜか刺し身やてんぷらまで出てくる。恐る恐る聞いてみると、1週間前に宇野外相(そう、しばらく後に突然、首相の椅子が転がり込んだかと思ったら、「三つ指」問題ですぐコケてしまった、あの宗佑さん)が訪問したときの残り物で、材料はなんと北海から取り寄せたという。会議でさんざん日本国の悪口を叩いただけにいささか気が引けたが、草原の料理にウンザリしていたので、ばくばく頂戴。おまけに翌日は、大使館のランドクルーザー仕立ての遠出まで演出してくれた。後知恵だが、あれもメディア対策のささやかな「外交機密費」だったのか。
会議終了後、参加者全員でゴビ・ツアー。砂漠の真ん中でエンストしてしまったバスの尻を全員で押して動かしたのは、目に見える国際連帯の成果だった。国際連帯といえば、アジア諸国代表だけでの夜の懇親会の席で、バングラの記者に「日本の経済力を見せてほしい」などとノセられ、まんまと飲み代をもたされてしまった。
話変わって、その年の暮れ、JCJ本部での真夜中の納会―。代表委員を務めていた秦正流さんが、「1人ずつ来年の抱負を語ろう」と提案。思いつきで、「ウラジオストーク港に繋留されている空母ミンスクの赤錆びた甲板上で、日ソ・ジャーナリストのホンネの討論会を」と大ボラを吹いたところ、秦さんは大乗り気。「キミ、ぜひそれを実現しようや」と言ってくださった。
実はモンゴルで、翌年「ウラジオ開市」(外国人に開放)の情報を得ていたのだが、それが延期になるうち、ソ連は解体、秦さんも鬼籍に入ってしまわれ、とうとうタダのホラ話に終わってしまった。