「旅する蝶」のように ある原発離散家族の物語

  岩真 千 著 

放射能雲に追われ、沖縄へ避難した身重の妻と幼な子。ひとり身となった夫は、2000kmの距離を往ったり来たり。原発事故への怒りと涙の "半難民生活"。「5年半に及ぶ別居生活でみえてくる避難をめぐる軋轢、いじめ、そして沖縄問題。自主避難の理不尽が胸に迫る…それが正しかったかどうかなんて誰にもわからない」(文芸評論家 木村朗子氏)、「見えないもの、見たくないものを、見ずにはいられなくする書物」(『週刊新潮』評論家 武田将明氏)

霧ケ峰のニッコウキスゲ(17.07)

零細出版人の遠吠え

07/21 「猿は引っ掻くもの、政治家はウソをつくもの」とは、以前から承知してはいたものの、PKO日報問題をめぐる稲田朋美防衛相のウソ、加計学園獣医学部新設問題での山本幸三地方創生担当相のウソには、呆れて涙が出るくらいでした。
通常の市民感覚からすれば、どうにもウソとしか思えない言い草で、ウソを取り繕おうとする。つまりは「ウソの上塗り」。
「鋭意、なるべく早く」出すという「特別防衛監察」の結果にしたって、稲田大臣が3月にこれを指示したときには、「防衛省、自衛隊に改めるべき隠蔽体質があれば、私の責任で改善していきたい」なんて胸を張っていたのに、当の稲田氏が実は組織的隠蔽工作の中心にいた、なんて話が明るみに出つつあります。これも、後見人の流儀に忠実に従った、「アベ流」そのもの!
一方、厚かましさにかけてはこれに引けを取らない山本氏の方は、朝には「〔同席の〕秘書官がメモ書きみたいに書いていた。…それは確認した」と言っておきながら、夕方には「メモ自体はもうない。内容は覚えている」などと「発言を後退させた」そう(朝日新聞)。
まるで「朝令暮改」を地で行くような話ですが、そんな子どもじみた言い訳、いったい誰が信じるでしょう。
これも「政権末期症状」のひとつなのでしょうが、この内閣、どこをつついても、出てくるのはゴミとボロばかり。これを近畿財務局にでも持ち込めば、8億(!)にはなるのかもしれません。

そこで、きのうに続いて、「リベルタの第3仮説」と行きましょう─。

「集団や組織のレベルは、その頂点の高さによって規定される。すなわち、その頂点がどれだけ低くても、決して構成員がこれを凌駕することはない。」

「それじゃあ、第1仮説って何なんだ?」との声もおありかもしれません。ご関心の向きは、「紙」と共に去りぬ所収の以下の小論をご参照ください─。

 「ビーバ、プリントメディア!」(pp.18-21)
 「『リベルタの仮説』再論」(pp.83-86)

07/20 いったんついたウソは、辻褄を合わせるために別のウソを必要とし、それらのウソとウソが積もり積もって、最終的には破綻する─。
稲田防衛相の「南スーダンPKO日報隠蔽疑惑」は、そんな「リベルタの第2仮説」を地で行くような展開になってきました。
稲田氏をめぐるその顛末を、朝日新聞デジタルの記事などに拠ってフォローしてみると…、

'16.07   「ジュバで戦闘」と現地の日報に記載。
'16.09    フリージャーナリストが7月の日報の情報公開請求。
'16.12.02 日報を「陸自は廃棄済み」として防衛省が不開示決定
      (第1のウソ)
'16.12.26 統合幕僚監部に電子データが残っていたことが判明。
'17.01    陸自でも日報の電子データを確認。
       稲田氏に統合幕僚監部内での日報発見を報告。
'17.02   「統幕内でみつかったデータ」として日報を公表。
       陸自内でみつかったデータの対応を協議する幹部会
       議(「隊員個人が収集したデータ」とし、陸自に保
       管されていた事実は非公表を決定=組織的隠蔽
       に稲田氏も出席。
'17.03    衆院委員会で稲田氏、陸自内でデータが見つかった
       との「報告はされなかった」と答弁(第2のウソ)
       「1月に陸自内で日報がみつかっていた」などの報
       道を受け、稲田氏が特別防衛監察を指示。
'17.07.18 自身が「非公表」を了承したかどうかについては、
       「ご指摘のような事実はない」
      (そのウソ、ホント?)

まっ、このお方、これまでもあまりに平然とウソをつくことが多かったので、そんな「狼大臣」の言うことをまともに受けとる人なぞ、おそらく「絶滅が危惧される」ほどでしょう。
公募2カ月前に早々と獣医師会に対して「加計ありき」を伝えていた山本幸三地方創生相のウソについては、紙幅がなくなってしまいました。

07/19 意識的に論点をずらし、質問にはまともに答えない。木で鼻を括ったような答弁を繰り返す─。記者会見や国会答弁などで見慣れた光景ですが、昨今、「政治家や官僚の言語的頽廃」には、目に余るものがあります。
このように虚偽答弁を常套的に振り撒いてきたのは何も、間もなく解任必至の稲田朋美防衛相や、むしろ「フェイク答弁ぶり」が高く評価されて国税庁長官にご栄転あそばされた佐川宣寿・財務省前理財局長だけではありません。
アベ首相やスガ官房長官以下、政権トップの座にある人々が、一強権力に胡座をかいてやってきた基本的な政治姿勢が、そのままストレートに下へ伝わってきただけのことでしょう。
けさの朝日新聞オピニオン欄〈耕論〉が、「アカウンタビリティー(説明責任)」の視角から、この問題を取り上げています。
なかでも早大公共経営大学院教授・片山善博さんのお話は、県知事や閣僚を経験してきただけに、重みを感じます─。

 「…最近の国会審議では、官僚が『資料がありません』『でも、ちゃんとやっています』という意味の答弁をしています。そんなことを堂々と言うようになったのは初めてです。
 私が大臣ならば『待て、そんな話じゃ済まない』と説諭して部下にあんな答弁は絶対させません。しかし、現政権はむしろ説明責任を放棄した官僚答弁を歓迎している節があります。表面上は官僚の堕落ですが、この政権の下だからこういう事態が起こっているのではないでしょうか。」

07/18 亡くなった劉暁波さんが2009年12月、裁判審理に向けて記した陳述書「私には敵はいない:私の最後の陳述」を読みました(HuffPost Japan)。
これは2010年12月、主役不在のまま行なわれたノーベル平和賞授賞式でも代読されたそうで、読む者の心を深く打つ文章です。
「私には敵はおらず、憎しみの気持ちもない」と言って、彼を監視、逮捕し、尋問した警察官、起訴した検察官、判決を下した裁判官に対しても、その職業と人格を尊重する姿勢には、ある種、宗教的な神々しさすら感じました。
そして、「高い塀を越え、鉄格子を貫く太陽の光」たる妻・劉霞さんとの変わることのない愛もさることながら、祖国・中国が「表現の自由がある場所となることを。全ての国民の発言が同等に扱われるようになることを」強く希う劉暁波さんの以下の文章には、ファシズム監獄に囚われながら、「知のペシミスト」であり「意思のオプティミスト」であったアントニオ・グラムシを思い起こさせるものがあります─。

 「…そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、平和的に共存できる。多数意見と少数意見が平等に保障され、特に権力者と異なる政治的見解も、十分に尊重され、保護される。ここではあらゆる政治的見解が太陽の光の下で民衆に選ばれ、全ての国民が何も恐れず、政治的意見を発表し、異なる見解によって迫害を受けたりしない。
 私は望んでいる。私が中国で綿々と続いてきた「文字の獄〔言論弾圧のこと〕」の最後の犠牲者となることを。そして今後、言論を理由に罪に問われる人が二度と現れないことを。
 表現の自由は人権の基礎であり、人間性の根源、真理の母である。言論の自由を封殺することは、人権を踏みにじり、人間らしさを閉じ込め、真理を抑圧することなのだ。
 憲法によって付与された言論の自由を実践するためには、公民としての社会的責任を果たさねばならない。私がしてきたあらゆることは罪ではない。たとえ罪に問われても、恨みはない。
皆さんに感謝を。」

07/14 中国のノーベル平和賞作家で人権活動家の劉暁波さんが、囚われの身のまま肝臓がんで亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。
1989年7月初め、ウランバートルでのジャーナリスト国際会議に参加するのに、当初は北京経由の列車で行くつもりでしたが、出発直前に「天安門事件」が勃発、やむなく成田からはるばる空路モスクワ経由を余儀なくされたことが思い出されます。
あれから28年、中国民主化のため不屈にたたかい続けた劉暁波さんの強靱な意思に、心から敬意を捧げたいと思います。

さて、そんな素晴らしい人物のことを思い浮かべた後で、話題にするのも憚られるのですが、このところ私らの国では、あまりに不誠実な政治屋が次から次へと出てきます。
この連中は一様に「暴言」「失言」を重ねては人々の顰蹙を買い、そのつど一様に、「"誤解" という便利な言葉」を使って、事もあろうに、自分の罪を聞く側のせいにしてしまおうと企みます。まったくもって「卑怯千万な輩」なのですが、いまそんな政治屋が永田町界隈に急増殖しているのです。
けさの朝日新聞、田玉恵美さんの記事「政治家、なぜ『誤解』連発 二重の意味で不誠実、批判も」は、この手の政治屋の代表格・稲田朋美防衛相をケーススタディに、興味深い見方を紹介しています─。

「〔政治家が『誤解』という言葉を使う場合〕本来の意味とは離れ、詭弁になっていることがあるので、だまされないよう注意が必要だ」(東大教授・西成活裕さん)。

「〔稲田氏のケースは〕本音をうっかり口にしたら怒られたので、誤解という言葉で取り繕おうとしたのではないか。でも、論理をごまかしていると事態の収束は難しくなるのです」(同)。

「失言したうえに『誤解』と言い募ることは、二重の意味で有権者に対し不誠実だ」(国語辞典編纂者・飯間浩明さん)。

なお、このテーマについて詳しく知りたい方には、シルバーブラットさんのメディア・リテラシーの方法をお薦めいたします。

07/13 きょうはいつもとはガラッと趣を変え、この秋に日本出版者協議会(出版協)が開催するブックフェアのご案内─。

         出版協ブックフェス

 
と き: 9月9日(土)10時〜19時
 ところ: 在日本韓国YMCAアジア青少年センター
     (千代田区神田猿楽町2-5-5)
      JR水道橋駅東口より徒歩5分
      メトロ神保町駅A5出口より徒歩7分
 
          キャッチコピー

「空気なんか、読まなくていいじゃない。本を読もうよ。」

 
自由な、批判的な、個性的な、表現・言論のしにくい空気が漂っている今、そうした空気などをあえて読み飛ばし、多様な表現を守り、世に送り出し続けている出版社は、実はたくさんあります。
 また、世の流行とは無縁に、コツコツと次代に繋ぐ専門書を刊行している出版社もあります。出版協の会員社の多くが、そうした特徴のある出版を続けています。
 このような出版の多様性を、この機会に広く知っていただきたい。そして、空気なんて読まず、自由に生きていけるような社会を一緒につくっていこうよ、というメッセージを伝えたい。そんな想いが、このコピーには込められています。

 開催までの準備の様子につきましては、日々刻々、ツイッターにてご報告いたします。

なお、そこでのリベルタ出版の「出展者紹介」から─。

「リベルタ出版は、『Liberta』(自由、気まま)を旨とする究極の零細出版者。メディア、環境、原発を中心に「空気を読ま(め)ない」本ばかりを出版しています。http://liberta-s.com」
「リベルタ出版のイチオシ本は何と言っても『メデイア・リテラシー:マスメディアを読み解く』です。日本のメディア教育の礎を築いた「古典的名著」で、もうかれこれ4半世紀も売り続けています。」

ってな具合。ときどき「そーっと覗いて見て」ください。