シークレット・パワー』訳注補遺

以下に掲げるのは、ニッキー・ハーガー著『シークレット・パワー』の日本語版に、訳者・佐藤雅彦氏が訳注として用意した原稿である。リベルタ出版は、これらが1冊の翻訳書への訳注としてはあまりにも詳しすぎ、紙幅の都合等の理由からこれらを収録することはできないと判断し、訳者との協議のうえ、書籍では割愛した部分を本ウェブ上に掲載させていただくことにした。

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なお、下記の文章を引用される場合は、次のように出典を明示して下さい。

出典:『シークレット・パワー』[ニッキー・ハーガー著, 佐藤雅彦訳, リベルタ出版, 2003年]のウェブ訳注(http://member.nifty.ne.jp/pub-liberta/)

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第6章

●フランスその他の国々の核実験について【160頁・上段・最終行】

 大気圏や宇宙空間や水中における核実験は1963年8月14日に米英およびソ連が「部分的核実験禁止条約」(PTBT)を結んで禁止されることになり、以後は地下核実験が行なわれるようになった。フランスと中国はこの条約に加わらなかったが国際的な圧力を受け、結局フランスは75年(中国も81年)以降、大気圏内核実験を行なわなくなった。90年代に入り冷戦が終結すると、フランスは(91年7月に地下核実験を行なっていたものの)ミッテラン大統領の主導により92年4月に南太平洋での核実験“一時凍結”(モラトリウム)を宣言し、米英とロシアがこれに追従することで「核不拡散条約」(NPT)の更新と「包括的核実験禁止条約」(CTBT、いわゆる核実験全面禁止条約)締結を行なう政治環境が生み出された。

 その後、96年9月10日に国連総会でCTBTが採択され、地下を含む全ての核爆発実験が禁じられることになった。ただし同条約の採択に至る過程でフランスと中国が“駆け込み乗車”的な核実験を繰り返すこととなった。すなわち95年にNPT体制の無期限延長――つまり米英露仏中だけによる核兵器独占体制の永久的固定化――を決める“NPT再検討会議”が開かれ、その場で96年でCTBT締結交渉を終了させて早期発効に移すことが合意されて早ければ96年にもCTBTが発効する見通しとなったため、実際の核実験の膨大なデータを元にスーパーコンピュータの計算で仮想模擬実験を行なうという“臨界前核実験”の技術を持たない後発の核兵器保有国、すなわちフランスと中国が、技術データ収集のために大慌てで地下核実験を繰り返したわけである。結局、フランスは95年9月5日から翌年1月27日までモルロア環礁で合計六回の地下核実験を行ない、1月29日に実験終結を宣言した。(1966年7月2日の初実験以来、フランスがモルロアおよびファンガタウファ環礁で実施した核爆発はおよそ200回に達する。) 中国もNPT延長会議終了から三日後の95年5月15日から翌96年7月29日まで四回の地下核実験を行ない、7月30日に実験終了を宣言した。

 ところでNPTには核兵器をすでに有しているインド、パキスタン、イスラエルなどが加盟していないわけだが、97年7月2日と9月18日に米国が“臨海前核実験”を行ないCTBT違反の疑いが噴出したため、五ヵ国による核兵器独占体制に異議を唱えて「世界の核兵器の全面的撤廃を行なうか、さもなければ核武装の権利を認めるべきだ」と主張していたインドがこうした裏切りに態度を硬化させて、98年5月11日と13日に24年ぶりの地下核実験を実施し、潜在敵国のパキスタンもこれに対抗して同月28日と30日に初の地下核実験を行なった。2001年9月11日のいわゆる“米国同時多発テロ”がきっかけとなり米国ブッシュ政権は“ならずもの国家”との第二次冷戦を公然と宣言するにいたり、2002年1月には米国国防省「核体制の見直し」報告書を議会に提出して地下核実験の再開検討を求めるに至った。こうしてCTBT体制は破綻の危機に立たされることになった。

 

* 誤植訂正

(本書に次のような誤植が見つかりましたのでお詫びのうえ訂正いたします。)

本文175頁(上段・10行目)PGP暗号について: 【誤】【訳注4】⇒【正】【訳注3】

本文175頁(下段・1行目)クリッパーチップについて: 【誤】【訳注5】⇒【正】【訳注4】

本文175頁(下段・4行目)GSM規格について: 【誤】【訳注6】⇒【正】【訳注5】

本文176頁(下段・最後から4行目)トラフィック解析について: 【誤】【訳注7】⇒【正】【訳注6】

第7章

●NCR社について【193頁・下段・最後から2行目】

 NCR社(National Cash Register Co.)は、1878年にジェイムズ・リッティが発明した金銭登録機(レジスター)を製造販売する会社として、1884年にオハイオ州デイトンに誕生した(1906年には同社外国部が日本語カタログを製作して日本でも販売を開始し、1920年には日本法人[当時の社名は「日本金銭登録機」]も設置された)。第二次大戦を経て1954年には世界初の磁気ファイル搭載型電算機「ナショナル・エリオット405」を発表して電算機市場に進出。57年にはGE社と提携して世界初の完全トランジスタ式電算機「NCR304」を発表し真空管方式の"第1世代"コンピュータ時代を終わらせた。「NCR304」第1号機はカリフォルニア州ペンドルトンの米国海兵隊基地に納入された。61年には大容量記憶装置CRAM(カードランダムアクセスメモリ)を装備した「NCR315」モデル、68年にはディスク式記憶装置を主体とした「NCRセンチュリ ー・シリーズ」、76年には世界初の仮想計算機能を備え分散処理構造を採用した「NCRクライテリオン・シリーズ」や世界初の"対話型"電算機「NCRセンチュリー8200」を発表した。82年には主要製品にオープンシステムの採用を表明して「NCR9005 パーソナル・ワークステーション」を出し、パソコン時代のオフィス電算機の先駆けとなり、翌83年には世界初の商用UNIX搭載機「NCR・TOWER1632」を発表した。その当時の電算機は製造会社ごとに設計思想が違うメインフレイム機が主役であったが基本的な作動システム(OS)に汎用性の高いUNIXを用いたことで柔軟な用途を開拓できるようになった。

 「TOWER」というのは同機の格納容器が縦長の"塔"のような形をしていることから付けられた商品名(同社の登録商標)だったが、以後、縦長のコンピュータ筐体は一般に「タワー」と呼ばれるようになった。なお同年には世界初の32ビットマイクロプロセッサを使った汎用電算機「NCR・ITX9300」、86年には大型の汎用電算機「NCR9800」を発表している。91年には米国最大の通信会社AT&Tと合併し、94年に米国本社の社名を「AT&T Global Information Solutions」に改め、日本法人も「日本AT&T情報システム」に改称。96年にふたたび社名を改めて米国本社は「NCR Corporation」、日本法人は「日本NCR」とした。97年にはAT&T社から分離独立し、ニューヨーク証券取引所に株式を再上場するにいたった。

●ICL社について【193頁・下段・最後から2行目】

 ICL社(International Computers, Ltd.)は英国で唯一、そして欧州最大のコンピュータ製造会社。もともとは1968年に英国政府が電子産業分野での国際(つまり対米)競争力強化を目指し、ICT社(International Computers and Tabulators, Ltd.)とEEC社(English Electric Computers)を合併させて作った。この結果、欧州最大の電算機製造会社として生まれたICL社は70年代に年率20%もの急成長を続けたが、パソコンが出現した70年代終わりに経営が行き詰まり、81年に政府が大規模な資金を投じてテコ入れし人員も3分の2にまで減らした。経営不安の中で提携相手を捜し、ようやく日本の富士通と手を結び、現在にいたっている。

●UNIXについて【194頁・上段・2行目】

 「UNIX」(ユニックス)は米国AT&T社のベル研究所で開発された時分割処理システム用のコンピュータ作動管理プログラム(オペレイション・システム)である。もともとは小型電算機に用いる単一利用者むけとして作られたが、現在ではワークステーション型電算機を中心に、パーソナルコンピュータからスーパーコンピュータまで広範多様な電算機を動かす基本プログラムとして採用されている。

 

第12章

●機密の取扱資格と段階指定について【312頁・下段・5行目】

「機密取扱資格(クリアランス)」と「機密指定の段階種別(クラスィフィケイション)」について
 米国の軍事・諜報機関で用いられている"機密取扱資格(security clearances)"と"機密指定の段階種別(security classification)"についての概要を、以下に解説する。(この文書は英語圏のウェブサイトで閲覧可能な各種の情報を総合してまとめたものだが、特に http://matrix.dumpshock.com/tzeentch/Shadowrun/Articles/srm_intel3.htm が役に立った。)
 諜報データを収集してそれを分析加工し、諜報報告書にまとめて"顧客"に配給するまでの工程には多くの人員が関わる。そうした人員を介して諜報データが外部に漏洩すると、"傍受標的"にデータ収集の方法が知られて予防策が講じられ、以後の諜報収集ができなくなる恐れがある、そういうわけで諜報データは機密扱いにする必要があるし、複数の諜報機関などが諜報データの交換などを行なうようになると、それに伴って機密保持や諜報成果配給や諜報によって得たデータや成果への閲覧についての統一的な実施指針が必要になってくる。こうした事情から「機密取扱資格」と「機密指定の段階種別」が策定された。

1.「機密取扱資格」
 「機密取扱資格(セキュリティ・クリアランス)」は、機密指定になった情報を閲覧する資格を、個々の人員に与える手続きを指す。機密情報の所有者は、国家安全保障の観点からみてその情報を知るに足る人物が、合法的で正当な根拠を持った国家統治目的を成し遂げる目的で機密情報を見たいとか、知りたいとか、保有したいと求めてきた場合には、「必要限定開示(Need-to-Know)」の原則――つまり「必要時にのみ必要な情報だけを必要な人にだけ供給する」という機密管理の原則――に基づいて、その人物に機密情報を提供することになる。
 米国政府・軍部の諜報共同体においては、機密情報や秘密情報の取扱資格を受けるにふさわしい、と見なされた人物は国防保安局(Defense Security Service)の身元調査(BI)を受けることになっている。さらに「最高秘密」やそれよりも機密度の高い「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(SCI)」の取扱資格を与えるべき候補者には、「望遠鏡的身元調査」(SBI)を行なうことになっている。「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果」や「特別閲覧規制措置(SAP)」の閲覧者は、うそ発見器や厳格な身元調査を受ける場合もある。政府や軍部との契約業者やコンサルタント業者は、共通役務局(General Services Administration)によって身元調査を受ける。
 こうして身元調査が完了すると、その結果は中央機密取扱資格考査局(Central Clearance Facility)に送られ、ここで最終的な審査が行なわれる。こうして機密取扱資格を候補者に与えるかどうかが決められるわけだが、こうした資格審査は「最高秘密(トップシークレット)」に関しては5年ごと、「秘密(シークレット)」と「内密(コンフィデンシャル)」については10年ごとに見直しが行なわれ、契約業者の場合は3年ごとと、見直し期間はさらに厳格である。

1-1.候補者に機密取扱資格を付与するかどうかは、次のような身元調査に基づく人物考査によって決定される。
1)「国家機関による身元確認」(National Agency Check、略称NAC――これは身元調査の基礎を成すもので、人事院(Office of Personnel Management)が定めた"保安/適性調査指標"の他に、連邦捜査局(FBI)鑑識部、FBI本部所蔵の捜査ファイル、国防機密取扱資格・人物調査指標や、必要分野の人事考査データに基づいて資格審査を行なう。必要に応じて銀行取引などの信用情報データも参照する。
2)「身元調査」(Background Investigation、略称BI――これは「国家機関による身元確認」のほかに個人信用情報や面接や筆記試験、必要分野の最近5年間にわたる人事考査データなどを参照して行なう資格審査である。
3)「望遠鏡的身元調査」(Single Scope Background Investigation、略称SBI)――これは「国家機関による身元調査」の他に、出生地および生年月日の独自の確認調査、個人信用調査、面接や筆記試験、必要分野の最近10年間にわたる人事考査データなどを参照して行なう厳格な資格審査である。考査対象の人物の配偶者や同居人や、外国勢力から脅迫を受ける恐れのある関係者についても「国家機関による身元調査」が実施される。外国で生まれた家族がいる場合には移民帰化局の調査を受ける。

2.「機密指定の段階種別」
 諜報活動によって得られたデータや成果に対する閲覧行為を管理統制するための最も基本的な方法は、個々の諜報データや諜報成果に、必要な「機密度」に応じた段階別の機密指定を行なうことである。それぞれの「機密の段階」に応じて、「必要時にのみ必要な情報だけを必要な人にだけ閲覧させる」という"必要限定開示"の原則にもとづき、機密取扱資格を与えられた人々に情報を見せるわけである。
 ただし勘違いしてはならないことだが、個々の諜報データや諜報成果に各種段階の機密指定を行なったからといって、それぞれの段階の機密への閲覧資格を持つ人々への開示が、無条件に許されるというわけではない。諜報データや諜報成果を取り扱う政府や軍の機関には、それぞれ特別保安管理官(Special Security Officer)のような役職の人間がいて、そうした管理官が個々の状況に応じて(閲覧資格を持った人々に対して)閲覧を許可するかどうかを決めている。だから「最高秘密」情報を閲覧できる資格を持った人物でも、その機密取扱資格だけを根拠にすんなりと閲覧が許されるわけではないのだ。

2-1.機密指定の段階種別は、現在は「内密(Confidential)」「秘密(Secret)」「最高秘密(Top Secret)」の三段階が基本になっている。この三段階の機密指定下の情報は一括して「併存する国家保安情報(Collateral National Security Information)」と呼ばれることが多い。ところで、この「最高秘密」のさらに上位に、少なくとも九種類の機密保護(=開示規制)措置が存在している。それらの代表格は、国防総省の「特別閲覧規制措置(DoD SAP)」、エネルギー省の「特別閲覧規制措置」、「中央諜報庁長官取扱注意で断片的にのみ開示されうる情報措置(DCI SCI)」などであるが、その他にも統合参謀本部の作戦計画や、中央諜報庁(CIA)作戦本部(Operations Directorate)の作戦ファイルや諜報入手元の情報などがそうした"最高秘密をしのぐ秘密"に該当する。

2-1-1.「最高秘密(TOP SECRET)は、正当な権限を持たない勢力に知られた場合には国家安全保障に極めて重大な損害をもたらす恐れがあると予測されるような情報を指す。この「国家安全保障に極めて重大な損害をもたらす恐れ」というのは、武力対立を引き起こしたり、国家の安全を危うくするほど外交関係に悪影響が及んだり、国防計画や暗号通信や通信諜報システムに損害が及んだり、機密にしておくべき諜報作戦が外部にばれたり、国家安全保障にとって死活的に重要な科学技術情報が世間に知られるなどの事態を意味している。

2-1-2.「秘密(SECRET)は、正当な権限を持たない勢力に知られた場合には国家安全保障に深刻な損害を及ぼす恐れがあると予測されるような情報を指す。「国家安全保障に深刻な損害を及ぼす恐れ」とは、国家安全保障に著しい悪影響を及ぼすほど外交関係に悪影響が及んだり、国家安全保障にじかに関係する国家事業や政策に著しい損害を及ぼしたり、重要な軍事計画や諜報作戦が世間にばれたり危機に陥ったり、国家安全保障にとって死活的に重要な科学技術情報が世間に知られるなどの事態を意味している。

2-1-3.「内密(CONFIDENTIAL)は、正当な権限を持たない勢力に知られた場合には国家安全保障に損害を及ぼす恐れがあると考えられる情報を指す。「国家安全保障に損害を及ぼす恐れ」とは、陸海空軍の軍事力を示すような情報が危険に晒されたり、戦争に用いる機密軍需品の維持や監査、それを用いた訓練などの専門的な情報が暴露されたり、戦争で用いる軍需品の性能や試験データや設計および製造データが世間にばれることを意味する。

2-1-4.その他の機密種別として、「機密扱いなし(UNCLASSIFIED)というカテゴリーがある。「機密扱いなし」は、公表を阻止するには及ばないが、記録の価値や有用性が公表によって損なわれる恐れがあるとか、交換補修に莫大な費用がかかるとか、改竄や乱用の被害に遭いやすいなどの危険性があり、内容の改変や破損などを防ぐ必要がある情報に適用される。
 「機密扱いなし」という"事実上の機密指定"を受けた情報のなかには、さまざまな理由から公表が規制されているものがある。そういうものは「機密扱いではないが統制された情報(unclassified controlled information)」と呼ばれており、具体的には「公務使用に限る」「取扱注意だが機密扱いなし」(以前は「限定的な公務使用に限る」)、「薬物取締局・取扱注意情報(DEA Sensitive information)」、「国防総省・機密扱いではないが統制された核関連情報」などの種類がある。

2-1-4-1.「公務使用に限る(For Official Use Only)(略称FOUO)は、機密扱いではないが、情報公開法(FOIA)にもとづく一般市民への強制開示は免れることができる情報に貼られる"事実上の機密指定表示"である。ただし「公務使用に限る」という表示を行なうために先ずもって当該情報は"機密扱い"にしてはならないし、それまで"機密扱い"でその指定を解除した情報に「公務使用に限る」という表示を新たに貼ることができるがその場合は新たに"機密扱い"にすることは許されない。

2-1-4-2.「取扱注意だが機密扱いなし(Sensitive But Unclassified)(略称SBUは、国務省内で生み出された情報で、機密保護と行政当局による開示の抑制を行なうだけの相当な理由があり、情報公開法(FOIA)にもとづく一般市民への強制開示を免れるための判定基準に合致しているものに貼られる"事実上の機密指定表示"である。1995年5月26日以前には、この種の情報は「限定的な公務使用に限る(Limited Official Use)(略称LOUという表示が貼られていたが、この「LOU」表示はもはや使われていない。

2-1-4-3.「薬物取締局・取扱注意情報(DEA Sensitive information)は、連邦政府の薬物取締局(Drug Enforcement Administration、略称DEA)内で生み出された"機密扱いなし"の情報で、正当な権限のない情報開示によって捜査活動の情報元や方法・犯罪証拠・公判前の捜査報告書の信頼性などが脅かされないように、公表せずに保護しておく必要があるものに貼られる"事実上の機密指定表示"である。【注記――DEAは日本では「麻薬取締局」と訳されてきたが、同局は「規制物質法(Controlled Substances Act)」で定めた各種薬物の規制取締が任務であり、その取締対象は「麻薬」だけに限らない。それに「麻薬」という日本語では違法薬物全般を表現するのに不適切であるので、本書では「薬物取締局」という訳語を用いる。】
 「薬物取締局取扱注意情報」という表示を貼るかどうかは、同局の局長および若干の職員の専決事項である。なお、国防総省もこの表示が貼られた情報は一般公開しないことに同意している。

2-1-4-4.「国防総省・機密扱いではないが統制された核関連情報(DoD Unclassified Controlled Nuclear Information)(略称DoD UCNIは、同省の特定核物質(Special Nuclear Material、略称SNM)や関連機材・施設類の物理的防護に要する各種保安対策(保安計画・保安手続き・保安装備など)についての"機密扱いなし"の情報に貼られる"事実上の機密指示表示"である。
 この表示は、正当な権限のない情報開示によって一般市民の健康と安全に著しく有害な影響が及ぶとか、核兵器の違法生産が行なわれて国防や安全保障全般に顕著な危害が及ぶとか、特定核物質が窃盗・悪用・破壊に遭う恐れがあると予測しうる充分な理由がある場合にのみ、貼ることが許されている。
 この表示を貼る権限は、国防総省の当該部局の責任者やその代理人に委ねられている。

3.警告表示押印と配布統制
 「内密CONFIDENTIAL」「秘密SECRET」「最高秘密TOP SECRET」という三段階の機密指定には、閲覧や配布がむやみに行なわれないように戒める警告表示が押印される。そうした表示は、『SECRET/NOFORN/ORCON/PROPIN(秘密/他国への開示禁止/発行者の許可なき情報の配布や抜粋使用を禁ず/所有権情報を含む)や『CONFIDENTIAL/NOCONTRACT(内密/請負業者・コンサルタント業者への開示禁止)のように、まず機密指定の段階が示され、それに続いて取扱上の警告表示が押印される。

1)「他国への開示禁止(NOFORN)(Special Handling Required - Not Releasable to Foreign Nationals)は、適切な機密取扱資格を有し尚かつ"知る必要がある"立場の米国市民にのみ閲覧が許された(つまり外国人には一切見せてはならない)情報に貼られる警告表示である。この警告表示は、同盟国との関係を損なうとか諜報収集活動を阻害する恐れがある情報に押印される。「(外国機関)への開示を認める(REL〜)」という警告表示といっしょに用いることは許されていない。
 ちなみに諜報文書は、開示規制をしめす表示がまったく押印されていない場合でも、文書発行元の許可があれば、各種の国家安全保障指令に基づいたやりかたで、外国勢力に原文のまま開示することも許されている。

2)「発行者の許可なき情報の配布や抜粋使用を禁ず(ORCON)(Dissemination and Extraction of Information Controlled By Originator)は、諜報データの収集元や収集方法をはっきり判るかたちで記述しているか、容易に判ってしまう可能性が充分に考えられるような機密指定情報に対して押印される警告表示である。諜報収集元や収集方法が突き止められてしまうと対抗措置をとられて諜報活動が無効になったり著しく効力が損なわれる恐れがあるので、こうした表示によって情報取扱の規制を行なうわけである。この表示が押印された情報は、発行元の国家機関から閲覧許可を受け、その監視下でのみ閲覧することが許される。この表示はたいていの「秘密」と「最高秘密」の文書に押印されている。具体的に機密取扱の要領を示した表示としては最も厳しいもので、他の規制手段では不十分な場合にのみ用いられる。

3)「所有権情報を含む(PROPIN)(Caution - Proprietary Information Involved)は、知的所有権で保護される企業秘密であるとか現在または将来に商業価値を発揮すると見なされた知的所有財産だということを明示したり暗黙の了解のもとで、営利企業や民間人が政府に提供した情報に対して押印される警告表示である。この表示は機密指定の有無にかかわらず用いられる。

4)「〜への開示を認める(REL《ここに国名や機関名の略号を続けて記載》)」(Authorized for Release To 〜)は、機密指定された諜報文書に押印される表示で、すでに確立された外国への情報開示手続きや外交経路をつうじて、文書発行元がこれを指定された外国機関や国際機関に開示することを許可したことを示す。
 この「REL」表示は、発行元が指定した開示相手(略号表記)といっしょに示す。表示例はつぎの通り――「RELUK」は「英国(UK)への開示を認める」、「RELROK」は「北朝鮮(ROK)への開示を認める」、「RELUKCANAUS」は「英国・カナダ(CAN)・オーストラリア(AUS)への開示を認める」、「RELUNPROFOR」は「国連保護軍(UNPROFOR)への開示を認める」。

3-1.なお、下記の警告表示押印はすでに使われていない――
「警告・諜報入手元や方法の記載あり」WNINTEL、Warning Notice - Intelligence Sources or Methods Involved)
「警告・取扱注意の情報元や方法の記載あり」(Warning Notice - Sensitive Sources and Methods Involved)
「警告・取扱注意の諜報入手元や方法の記載あり」(Warning Notice - Sensitive Intelligence Sources and Methods Involved)
「請負業者・コンサルタント業者への開示禁止」NOCONTRACT、Not Releasable to Contractors/Consultants)
「配布規制文書」CONTROLLED DISSEM
「国家安全保障会議参加省庁以外への開示禁止」NSC PARTICIPATING AGENCIES ONLY
「国防総省諜報組織以外への開示禁止」INTEL COMPONENTS ONLY
「限定開示」LIMITED
「開示規制継続中」CONTINUED CONTROL
「外国への配布を禁ず」NO DISSEM ABROAD
「知り得た内容を口外してはならない」BACKGROUND USE ONLY
「合衆国諜報評議会以外への開示禁止」USIB ONLY
「国家対外諜報評議会以外への開示禁止」NFIB ONLY
  【注記――合衆国諜報評議会(United States Intelligence Board)は1957年にアイゼンハワー大統領が設置した全諜報機関の首脳が一堂に会する場であり、中央諜報庁(CIA)長官に諜報政策の助言を行なうのが任務になっている。国家対外諜報評議会(National Foreign Intelligence Board)は米国の諜報機関が収集した対外勢力に関する全ての情報を交換しあう場であり、公然的および秘密的手段で入手した経済諜報データもここでやりとりされる。】

4.「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(SENSITIVE COMPARTMENTALIZED INTELLIGENCE)(略称SCIというのは、古典的な「最高秘密を凌ぐ秘密(above Top Secret)」を指す言葉なので諜報業界以外の人々にはそれが一体どのようなものかさまざまな臆測を語ってきたが、この機密指定で保護対象となるのは偵察衛星・偵察機・潜水艦などが収集した諜報データなどである。
 「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果」の閲覧資格を得るためには「最高秘密」閲覧資格に必要な身元調査を凌ぐ厳格な身元調査を受けることになっており、完全に信頼できる人物だと判定されぬ限り閲覧資格は与えられない。「最高秘密」への閲覧資格を有している者でもこの機密指定文書への閲覧が許可されない場合がありうる。
 「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果」に指定された文書は、「最高秘密」文書よりも格段に厳格な「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果用施設」(SCI Facility、略称SCIF)と呼ばれる特製の防護室に保管される。

4-1.「特殊諜報成果(SPECIAL INTELLIGENCE)(略称SIは、いくつかの種類がある「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(SCI)のなかの特に通信諜報や信号諜報の成果に適用される機密指定である。「特殊諜報成果」は機密度が最も高い「アンブラ(UMBRA)、それに次いで高い「スポウク(SPOKE)、最も機密度の低い「モーレイ(MORAY)の三段階に分かれている。
 こうした「特殊諜報成果」としての機密度は、元々の機密種別といっしょに諜報文書に押印して表示する。たとえば諜報文書の中の「アンブラ級の取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(UMBRA SCI)」の情報を含んでいるページには「最高秘密・アンブラ級TOP SECRET UMBRA」、「スポウク級の取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(SPOKE SCI)」を含んだページは「秘密・スポウク級SECRET SPOKE」と押印する。ここで勘違いしてならないのは、「最高秘密・アンブラ級」のハンコが押してあるからといって、「最高秘密」の閲覧資格を有する者がそれを見れるわけではないということだ。これを見るには「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(SCI)」についての機密取扱資格を取得する必要があり、情報の種類によってはこのほかに然るべき「特別閲覧規制措置(SAP)」での閲覧資格を得る必要がある。なお、「アンブラ」級の情報は常に「最高秘密」よりも機密度が高いし、「スポウク」および「モーレイ」級の情報も「秘密」または「最高秘密」段階の機密度である。

 【その後、1999年5月に米国諜報共同体内の『信号諜報保安規則(Signals Intelligence Security Regulation)』が変更されて、「アンブラ」「スポウク」「モーレイ」は一括して「コミント(COMINT)という機密指定呼称で呼ばれることになった。これによって「最高秘密・アンブラ級」「最高秘密・スポウク級」「最高秘密・モーレイ級」などの機密種別はいずれも「最高機密・コミント級」と呼ばれるようになり、機密文書の中のこの機密種別の段落(パラグラフ)には《TS//SI》という警告表示が押印されることになった。「秘密・スポウク級」と「秘密・モーレイ級」はいずれも「秘密・コミント級」へと改称され、機密文書中の該当段落は《S//SI》と押印されることになった。なお、この押印に用いられている「TS」は「最高秘密(Top Secret)」、「S」は「秘密(Secret)」、「SI」は「特殊諜報成果(Special Intelligence)を意味する。】

4-1-1.「コミント(COMINT)」という機密区分について
 「最高秘密・コミント級(TOP SECRET COMINT)」という機密区分には、特に取扱注意のデータを保護するための機密指定がいくつか設けられている。その代表格は「デルタ(DELTA)」と「ガンマ(GAMMA)で(ほかにも「VRK」「ECI」などの機密区分が知られている)、いずれも特定の作戦活動や諜報方法を示す機密指定の下位区分がある。こうした機密区分の呼び方(つまり暗号名)は、それ自体が機密扱いにされている場合が多い。こうした暗号名は、名前から指示内容が連想されないような全く無関係な言葉が選ばれる。

1)「ガンマ(GAMMA)という機密区分は、元来はソ連から通信傍受で入手した諜報データに適用されてきたが、その後、米国の反戦運動の指導者たちの通信を傍受して得られた諜報成果に用いられるようになった。「ガンマ」機密には「GABE」「GANT」「GILT」「GOAT」「GUPY」「GYRO」「GOUT」などの下位区分がある。たとえば「GMMMA GUPY」はソ連の役人がモスクワ近郊でかけた自動車電話、「GAMMA GOUT」は南ヴェトナム政府の通信を、それぞれ傍受して得られた諜報データに用いられていた機密区分である。こうした古い機密文書には、現在はもはや用いられていない「最高秘密・アンブラ級・ガンマ・ギルト(TOP SECRET UMBRA GAMMA GILT)」のような機密指定表示が押印されていたと推測される。

2)「デルタ(DELTA)は、潜水艦の位置や航空作戦など、通信傍受で得られたソ連の軍事作戦についての情報に適用されていた。「デルタ」機密には「DACE」「DICE」「DENT」などの下位区分がある。

4-1-2.「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(SCI)には、機密度を表わす表示のほかに、その情報の発行元を示す表示が押印される。たとえば「最高秘密・コミント級・ドルイド(TOP SECRET COMINT DRUID」という表示は、この情報が"第三当事者"(敵国ではない協力提供国)による通信傍受活動で得られたものだということを示している。
 この"発行元表示"は、「イシュタル(ISHTAR)」は日本、「セーティー(SETEE)」は韓国、「ダイナモ(DYNAMO)」はデンマーク、「リヒター(RICHTER)」はドイツ、「ディクター(DIKTER)」はノルウェーといった具合に、特定の国を示す暗号名になっている

4-2.「タレント・キーホウル(TALENT-KEYHOLE)(略称TKは米国のスパイ衛星(画像・信号諜報衛星)や偵察機などを指す暗号名である。こうした"頭上からのデータ収集"システムは一括して「国家的技術手段(National Technical Means)」という暗号名で呼ばれているが、これによって得られた諜報成果は「TK・取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(TK SCI)という機密区分で保護されている。
 「TK」機密には「RUFF」「CHESS」「ZARF」などの下位区分が設けられている。「RUFF」は画像衛星が得たデータ、「CHESS」は偵察機が得た画像情報、「ZARF」は衛星が得た信号諜報データに適用される機密区分である。
 【ただし1999年5月の『信号諜報保安規則(SISR)』の変更にともなって「ZARF」という暗号名は廃止され、それまで「ZARF」指定になっていた衛星信号諜報データは以後は一括して「タレント・キーホウル」という呼称が用いられることになった。これによって「最高秘密・タレント・キーホウル・ZARF(TOP SECRET TALENT KEYHOLE ZARF)」は新たに「最高秘密・タレント・キーホウル(TOP SECRET TALENT KEYHOLE)」と呼ばれるようになり、機密文書の中のこの機密種別の段落[パラグラフ]には《TS//TK》という警告表示が押印されることになった。】

4-2-1.「特殊諜報成果(SI)」と「タレント・キーホウル(TK)はいずれも"国家的技術手段"によって得られた諜報成果を保護するために設けられた機密区分であるが、事実上この二つはいっしょに付与されている。だから「SI機密取扱資格」と「TK機密取扱資格」は、一体化させた「SI・TK機密取扱資格(SI-TK clearance)と呼ばれるのが普通だ。ただし、この資格を与えられた者は、"国家的技術手段"によって得られた成果を閲覧することはできるが、こうした諜報収集システムそのものについての情報(諜報収集システムの型式や所在地やスパイ衛星の軌道情報など)に接することは許されていない。
 "国家的技術手段"についての情報は「バイマン(BYEMAN)と呼ばれる機密指定によって保護されている。

4-2-1-1.「バイマン(BYEMAN)」機密には、諜報収集システムや収集方法の種類に応じて多くの下位区分が設けられている。
 信号諜報収集衛星についての情報を保護している「バイマン」機密としては、「ライオライト(RHYOLITE)」「アクアケイド(AQUACADE)」「シャレー(CHALET)」「ヴォルテクス(VORTEX)」「ジャンプシート(JUMPSEAT)」「マグナム(MAGNUM)」などが知られている。
 画像衛星についての情報を保護している「バイマン」機密としては、「ケナン(KENNAN)」「ラクロス(LACROSSE)」「ガンビット(GAMBIT)」「ヘクサゴン(HEXAGON)」「コロナ(CORONA)」などが知られている。
 「バイマン」関連の機密暗号名は、マスコミなどに知られて世間に報道されると改名されてしまうと考えられる。だからここに列挙した暗号名が今でもそのまま使われているとは限らない。

4-3.「取扱注意で断片的にのみ開示されうる諜報成果(SCI)」は、ここに紹介した以外にも100種類以上の機密区分がある。たとえば国家安全保障庁(NSA)は「VER」、海軍は「SNCP」(Special Navy Control Program、特別海軍開示規制措置)や「M」(MEDITATE)と呼ばれる情報保護措置がある。

5.「特別閲覧規制措置(Special Access Program)(略称SAP――これは特に機密度の高い情報に関して、その閲覧・配給を管理統制し、機密保持を行なうために創設された機密区分で、ここの「特別閲覧規制措置」にはプロジェクトそのものを言い表すために「ブルー・ブック」「エコー・ミラージュ」「シニア・アイス」など、互いに関連のない二つの単語をつなげた機密扱いではないニックネームが付けられている。「特別閲覧規制措置」で開示規制された文書を閲覧する者は、機密保持の厳守についての説明を受けて各種の誓約書に署名したその場所で、機密文書を読み終えねばならない。(つまり持ち出し禁止なのである。)

 

 

第13章

【訳注1】への補足(NZの諜報監督体制について)【333頁・下段・最後から2行目】

 ニュージーランドの諜報監督体制は、同国政府のウェブサイトに解説が書かれている。1996年の制定法によって生み出された諜報保安監督監査体制で、ニュージーランド国家保安諜報局や政府情報通信保安局の活動がチェックされているわけだが、両機関のウェブサイトを比較すると、情報公開の姿勢に顕著な違いが見て取れる。また、政府情報通信保安局のウェブサイトには諜報保安監察長官の“お墨付き”報告が付属資料として掲示されているが、本書でUKUSA同盟との関係や秘密スパイ活動の詳細が暴露されたのちに(しかもちょうど「エシェロン」システムの危険性が世界的に注目されだした時期である)出された報告書だけあって、秘密主義やUKUSA同盟での活動が正当化されているのが興味深い。

 ここでは比較のために両機関のウェブサイトの解説を丸ごと翻訳して紹介する。

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●●ニュージーランド国家保安諜報局(SIS)のウェブサイト http://www.nzsis.govt.nz/nzsis/watchers.htmlにおける解説――

国家保安諜報局に対する監督

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しかし誰が見張りを見張るのかね?

   ――ユウェナリスの『風刺詩』(vi 347)より

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 ニュージーランドでは、適正な権限を持った独立した行政機関が公共の利益のために監査を行ない、国家保安諜報局(SIS)が適正かつ適法の活動を行なうことができるようにするため、立法によって特別の監督体制が作られた。この諜報監督体制は柱となっているのは、議会の諜報保安委員会と、諜報保安監察長官である。

 

●議会の諜報保安委員会(Intelligence and Security Committee)

 この委員会は、国家保安諜報局(SIS)と政府情報通信保安局(GCSB)の管理と監査を一段と強めることを目的に、「1996年諜報保安委員会法(Intelligence and Security Committee Act 1996)」によって設置された。

 同委員会は首相と野党党首を含む5人のメンバーによって構成され、首相と野党代表以外の残り3人については、このうちの2人は首相が政権内の他党の指導者たちと相談したうえで任命し、最後の1人は野党党首が他の政党指導者たちと相談した上で任命する。これらのメンバーは議会の承認を得ることになっている。

 諜報保安委員会は、国家保安諜報局(SIS)に関して次のような監督・鑑査業務を行なう。

(1)国家保安諜報機関の運営方針・管理実態・予算支出の状況を監査する。

(2)国家保安諜報機関に関係した法案・申し立て等々が代議院で言及された場合に、そうした案件について検討する。

(3)国家保安諜報機関の年次報告書を受け取り、その検討を行なう。

(4)首相が言及した安全保障や諜報問題にかかわるその他の案件を検討する。

【訳注――ニュージーランド国会は代議院(House of Representatives)から成る一院制である。英国議会の慣行に準じて、ニュージーランド議会でも市民が議会に対して“申し立て(petition)”を行なうことができる。】

 国家保安諜報局(SIS)の局長(Director of Security )は、諜報保安委員会から提出要請を受けた文書や情報の提出せねばならないが、やむにやまれぬ理由がある場合はそうした文書や情報の提出を提出しなくてもよい。こうした提出拒否が許されるための要件は、「1996年諜報保安委員会法」で明確に規定されている。すなわち――

(a)ニュージーランドの安全保障や防衛またはニュージーランド政府が行なう外交関係を害する恐れがある場合。

(b)他国の政府や政府機関や国際機関が信頼を寄せてニュージーランド政府に委ねている情報を害する恐れがある場合。

(c)犯罪の予防・捜査・発見や公正な裁判を受ける権利など、法秩序の維持を害する恐れがある場合。

(d)個人の安全に危害が及ぶ恐れがある場合。

 ただし委員会が請求した情報がこれらの基準に当てはまる場合でも、首相は情報開示が公共の利益に適うと判断し、その情報の提出を命令することができる。

 なお、外国政府からニュージーランドに手渡された情報の場合は、その開示を行なう際にニュージーランド政府が提供元の外国政府からあらかじめ同意を得ておかねばならない。

●諜報保安監察長官(Inspector-General of Intelligence and Security)

 諜報保安監察長官という職務は、「1996年諜報保安監察長官法(Inspector-General of Intelligence and Security Act 1996)」によって設置された。諜報保安監察長官は、高等法院の判事経験者が就任することになっている。【訳注――ニュージーランドの司法体系、日本の“最高裁判所”にあたる控訴院、それに次ぐ高等法院、そして地方裁判所によって成り立っている。】

 諜報保安監察長官の、国家保安諜報局(SIS)にかかわる職務は「1996年諜報保安監察長官法」の第11条(1)項に明記されているが、それは次のようなものだ――

(1)国家保安諜報局がニュージーランドの法律を遵守しているかどうかについて調査する。

(2)ニュージーランド「人(person)」や、国家保安諜報局の現在またはかつての被雇用者から、同局の作為・怠慢・業務・政策方針・手続きなどで危害をこうむったという苦情が出た場合、その苦情について調査する。[ニュージーランド「人(person)」とは、同法第2条(1)項で規定されたものをいうが、個人だけでなく、ニュージーランドの会社や法人化されていない団体などを含むことも可能である。]

(3)国家保安諜報局の作為・怠慢・業務・政策方針・手続きなどでニュージーランド「人」が危害をこうむった恐れがある場合、それがどのような事案であれ、(担当大臣と協力しながら)調査を行なう。

(4)国家保安諜報局の特定の活動について、その妥当性を(担当大臣と協力しながら)調査する。

(5)通信傍受令状とその施行に関して国家保安諜報局が法を順守するために採っている手続きが、有効で適切かを監査する。

(6)国家保安諜報局の全般的な監督と鑑査についてや、上記の諜報保安監察長官の各種任務を履行するための、各種事業計画を準備し、それらを担当大臣に提出する。

(7)担当大臣の認可を受けた事業計画を(修正を受けたり当初の事業計画と違うものも含めて)遂行する。

 

 国家保安諜報局は、自らが保持し、諜報保安監察長官が調査に関係ありと見なした資料を、取扱に注意を要する作戦関連情報なども含め、いかなるものであれ提出せねばならない。

 苦情に対する調査が完了した場合は、諜報保安監察長官はその苦情申し立て人に調査の結論を伝え、担当大臣と国家保安諜報局長に報告することになっている。

 諜報保安監察長官は、年に一度、首相に報告を行なう。この報告は、何件の調査を行ないその結果はどうだったか、といった具合に、同長官が行なった活動を総括するものである。報告書は野党の党首にも一冊提出し、首相はこの報告書から機密情報を取り除いた公開版を議会に上程することになっている。

 このほか諜報保安監査長官は、首相と協力しながら議会・諜報保安委員会に案件全般であれ特定の案件であれ、いつでも報告することができる。

 

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●●政府情報通信保安局(GCSB)のウェブサイトhttp://www.gcsb.govt.nz/oversite.htmにおける解説――

 

政府情報通信保安局に対する監督

●諜報保安監察長官

 「政府情報通信保安局」は(ニュージーランド国家保安諜報局とともに)諜報保安監察長官(I−G)の監督下に置かれている。諜報保安監察長官の基本的な役目は、ニュージーランドの諜報・保安機関群を監督および監査し、さらに下記のような任務を遂行して、担当大臣を補佐することである。その任務とは――

 【1】これらの機関群が法を順守しながら活動していることを保証することで担当大臣を補佐する。

 【2】つぎのいずれかに該当する人から出されたいかなる苦情も調査する。

     (a)ニュージーランド人、

     (b)「政府情報通信保安局」の現在またはかつての被雇用者、

     (c)同局の作為・怠慢・業務・政策方針・手続きなどで危害をこうむったり、こうむる恐れがある人。

     (d)「政府情報通信保安局」の作為・怠慢・業務・政策方針・手続きなどでニュージーランド「人」が危害をこうむった恐れがある場合、それがどのような事案であれ調査を行なう。【訳注――これは本来、【3】になると思うが、「政府情報通信保安局」のウェブサイトではこのように配置されている。】

 【3】「政府情報通信保安局」の特定の活動について、その妥当性を調査する。

 

 諜報保安監察長官は、取扱に注意を要する作戦関連の案件(諜報の収集や諜報成果の作成方法や情報元に関するあらゆる案件を含む)はいかなるものであれ調査できない。ただし諜報保安監察長官の任務遂行にどうしても必要だと見なされる範囲は、その限りではない。

 諜報保安監察長官は年次報告を行ない、首相の要請に応じて多くの調査を行なってきた。それらの調査についての報告内容は、付属資料(「政府情報通信保安局」に関する諜報保安監察長官の報告)を参照。

 諜報保安監察長官についての詳細は『1996年・諜報保安監察長官法』を読めばわかる。

 諜報保安監察長官の連絡先は首相・内閣府の下記のところである。

     Inspector-General of Intelligence and Security

     Level 5, Reserve Bank Building

     The Terrace

     Phone: (04) 471-9035

 

●諜報保安委員会(Intelligence and Security Committee)

 諜報保安委員会は、(議会の特別調査委員会とはちがう)制定法によって議会内に設置された委員会で、特別調査委員会が他省庁に関して行なっているような下記のごとき諸任務を遂行するために創設された。

・諜報保安委員会の構成

 諜報保安委員会は、首相が委員長をつとめ、このほか野党の党首と3人の議員から構成される。この3人の議員のうちの2人は首相が任命し、残りの1人は野党の党首が首相の承認を得ながら任命する。

・諜報保安委員会の任務

 諜報保安委員会は次のような任務を行なう――

(1)代議院から同委員会に照会のあった諜報保安機関にかんして、法案であれ申し立てであれそれ以外の案件であれ、どんな事柄についても検討を行なう。

(2)各々の諜報保安機関の運営方針・管理実態・予算支出の状況を監査し、とりわけ次のような活動を行なう――

  (a)年次歳出予算を監査する。

  (b)追加予算を監査する。

  (c)各々の諜報保安機関の業務遂行状況について財政面からの年次総括を行なう。

(3)各々の諜報保安機関から年次財政報告書を受け取り、その検討を行なう。

(4)各々の諜報保安機関から年次報告書を受け取り、その検討を行なう。そして、

(5)同委員会の活動を、代議院に報告する。

 諜報保安委員会の議事録は、取扱に注意を要する情報が含まれているしその業務の性質上から、通常は公衆に公開されていない。

 諜報保安委員会についての詳細は『1996年・諜報保安委員会法』を読めばわかる。

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●【付属資料】「政府情報通信保安局」に関する諜報保安監察長官の報告

 1999年6月(99年度末)に提出された諜報保安監察長官の報告書には、次のように記されている――

 ニュージーランドの信号諜報収集のための諸施設を管理・運用は「政府情報通信保安局」のみに委ねられており、その主な目的はこの国の対外諜報上の必要に応えるためである。

 信号諜報収集施設群は、諜報面におけるニュージーランドの“パートナー”(=外国勢力)たちの諜報機関群にとって有用であり、そうした外国諜報機関が“アクセス”(=利用)できるようになっている。外国諜報機関による信号諜報収集施設や諜報資料の“アクセス”は、つねに「政府情報通信保安局」の管理と監督の下で行なわれている。

 ニュージーランド市民の“プライヴェイト”な通信が傍受されたり諜報面の“パートナー”たちに渡ることのないよう、注意が払われている。

 ニュージーランドは“パートナー”たちと、情報や諜報成果の収集や分かち合いを行なっているが、これはニュージーランドとその諜報面での要請に有利に働くよう、充分な均衡がとれている。

 「政府情報通信保安局」と諜報面での“パートナー”たちは、業務手続きと作戦活動の両面で協力関係を築いてきたが、これはニュージーランドの人と物件のプライバシー面での利益を充分に守っているし、ニュージーランドの国家的および国際的な利益に有用である。

 私は、「政府情報通信保安局」の作戦活動がニュージーランド市民のプライバシーや個人の安全に有害な影響や不適切な影響をまったく及ぼしていないと、自信をもって断言する。そしてまた、諜報面での我々の“パートナー”たちが、自国民に対してと同様に、ニュージーランド市民に対しても安全やプライバシーへの配慮を行なっていることに、私は満足している。

 

●70年代の米国諜報機関の暴走と規制強化について【350頁・上段・最後から5行目】

●●1970年代米国の諜報機関の暴発と規制の経緯

●1.ニクソン政権の誕生と、違法な対国民スパイ活動の増長

 ヴェトナム戦争が泥沼の惨状を呈し、国の内外で“米国の非道”を糾弾する広範な反戦運動が高まっていた最中の1968年11月、共和党のリチャード・M・ニクソンが大統領に選ばれ、8年ぶりに共和党が政権を奪還した。ニクソンは50年代末のアイゼンハワー政権で副大統領を務め、CIA主導のキューバ侵攻秘密作戦を指導するなど諜報機関の非合法活動に関与していた。60年の大統領選挙は易々と当選すると見られていたが、ジョン・F・ケネディに僅差で敗北していた。

 69年5月に『ニューヨーク・タイムズ』が米軍の越境爆撃を暴露し東南アジアでの無謀な戦争拡大を報じた。ニクソンは情報漏洩の犯人を突き止めるため盗聴を指示し、国家安全保障会議の事務局員や民主党のマスキー上院議員、ニクソンの演説作家であるウィリアム・サファイアなどが標的となった。その翌月、トム・ヒューストン補佐官が“NSA、CIA、FBI、DIAが合同で行なう国内の反体制人物に対する大規模かつ広範な諜報活動(電話盗聴・郵便開封・組織潜入工作、密告体制など)の整備”を大統領に進言し、これは彼の名をとり「ヒューストン計画(Huston Plan)」と呼ばれることになる。翌70年の6月に「ヒューストン計画」の骨格がまとまり、7月に関係者に秘密回覧されたが数日後にミッチェル司法長官とフーヴァーFBI長官の反対にあって計画はとりあえず“撤回”され、ヒューストンは降格人事に遭った。これは一介の若造に国家的非合法活動を任せておけないという政権内部の反発と計画隠蔽が不十分だという懸念から生じた反応で、スパイ組織総がかりの国民監視計画そのものは政府中枢の望んでいたことだったといえる。なぜなら同年12月に「諜報評価委員会(Intelligence Evaluation Committee)」という形に変わって計画が再開されているからだ。もっとも、その後“ウォーターゲイト疑惑”が湧き起こって政府の非合法スパイ活動に国民の注目が集まり、そうした趨勢のなかで73年6月には『ニューヨーク・タイムズ』が「ヒューストン計画」の計画書を全文暴露し、同年10月に中心的存在だったNSAが諜報成果の提供を公式にとり止めるに至った。

 このようにニクソン政権は国内の政治的反対勢力を安易にスパイ監視するという非合法活動を行なっていた。一方、反戦世論の高揚の中で、マスコミは政府の戦争計画の秘密文書を次々と暴露するようになった。71年6月13日に『ニューヨーク・タイムズ』が国防総省のヴェトナム戦争内部総括の秘密報告書『ペンタゴン・ペイパーズ』を暴露し、その連載を開始した。『ペンタゴン・ペイパーズ』はロバート・マクナマラ国防長官の命令で1967年に編纂が始まった米国のインドシナ介入の歴史(1945〜68年)を総括する研究プロジェクトで、7000ページにおよぶ論文が編まれていた。

 

●2.『ペンタゴン・ペイパーズ』暴露報道事件

 この国防総省内部文書を同紙に渡したのは同省の中枢部にいたダニエル・エルズバーグ氏(Daniel Ellsberg)だった。彼は1931年デトロイト生まれで、ハーヴァード大学卒業後に2年間海兵隊で中隊長を務め、大学に戻って経済学博士号をとり59年にシンクタンク企業ランド社に経済アナリストとして就職した経歴を持つ。ジョンソン政権時代の64年にマクナマラ国防長官の支援スタッフとして国防総省に雇われ、64〜67年に南ヴェトナムに駐在、67年には大使の特別補佐官として活躍した。しかし政府内部の戦争計画の実態を知りヴェトナム戦争が「正しくない戦争」だという確信を強める中で、良心の発露として反戦運動をしている人々が“自由と民主主義”とは正反対の弾圧を受けている現実に憤り、杜撰で虚偽に満ちた戦争計画の真実を社会に知らせたいと考えるようになったのである。

 『ペンタゴン・ペイパーズ』暴露記事の翌日(71年6月14日)、ミッチェル司法長官はニューヨーク・タイムズ社に連載差止めの恫喝を行なうが無視され、最高裁も司法省の掲載中止要請を却下した。翌月(7月)、大統領内政担当特別補佐官ジョン・アーリックマンがエルズバーグ氏を起訴に持ち込むための特別調査班を結成し、CIAやFBIの元捜査官などを雇って「鉛管工」グループという偽名で非合法の対人スパイ活動を開始。9月にはエルズバーグ氏かかりつけの精神分析医のオフィスに侵入してカルテを盗み出した。

 “間違った戦争”に危機感を持つ政府や軍部の人々は、内部告発の手段としてマスメディアに期待をかけた。同年7月には『ニューヨーク・タイムズ』が陸軍下士官からの情報で米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)での対ソ譲歩の内容を暴露し、12月にはコラムニストのジャック・アンダーソン氏が海軍下士官からの情報で政府のインド・パキスタン介入計画“最高秘密”文書を暴露した。アーリックマン補佐官はヤング補佐官に機密漏洩の調査を命じ、ニクソン側近のチャールズ・コルソンは「鉛管工」の部下にアンダーソン記者の暗殺を指示した。この暗殺計画はキューバの政治指導者カストロを暗殺するために考案された毒薬を使うことになっていた。

 

●3.ニクソン政権の不当なスパイ活動濫用が“ウォーターゲイト事件”に発展

 1972年は大統領選の年である。ニクソン政権も年明け早々に二選に向けた体制作りに動き出した。72年2月、「鉛管工」グループの一員で精神分析医オフィスでの夜盗も行なった元FBI職員が“ニクソン再選委員会”に移り、ウォーターゲイトビルの民主党本部に侵入して情報泥棒を行なうという「宝石原石計画(GEMSTONE project)」を立案した。翌3月にはミッチェルも司法長官を辞めて“ニクソン再選委員会”委員長に就任し、「宝石原石計画」を承認した。

 この年の5月は違法な陰謀的活動が一気に増長した。「鉛管工」グループは上旬に『ペンタゴンペイパーズ』のエルズバーグ氏を襲撃する計画を立てた。これは“鉄砲玉”として亡命キューバ人に実行させる予定だったが、別件で逮捕され計画は頓挫した。下旬には民主党ビルへの押し込み強盗を行なって成功している。ちなみに同月中旬、ニクソンの最大のライバルと目されていた前アラバマ州知事のジョージ・ウォーラス候補が選挙運動の遊説中に撃たれ、一命を取り留めたが半身不随となり立候補を断念するという事件も起きている。翌6月の17日、「鉛管工」グループは民主党本部への二度目の夜盗を行なったが、不法侵入の現行犯で逮捕された。翌日、逮捕された人物が“ニクソン再選委員会”の警備主任(元CIA職員ジェイムズ・マッコード)だったことが報じられ、ミッチェル委員長もこれを認めた。19日には『ワシントン・ポスト』が一面トップでマッコードの政治的背景や“ニクソン再選委員会”の関係を報じ、それまでは市内版で小ネタ記事ばかり書いていた二人の駆け出し記者(カール・バーンステインと前年9月に入社したばかりのロバート・ウッドワード)が、以後の「ウォーターゲイト疑惑」報道を先導していくことになる。ウッドワードは入社前には国防総省とホワイトハウスとを結ぶ連絡将校を務めていた。

 

●4.“ウォーターゲイト事件”によるニクソン辞任

 72年6月18日に“ウォーターゲイト疑惑”が勃発するや、その犯人が“ニクソン再選委員会”やCIA、FBIの関係者であることが次々と発覚していった。当然、ホワイトハウスの関与が疑われたわけだが、ニクソンはこれを否定し、そればかりかヘルムズCIA長官に命じてFBIの捜査を妨害した。9月には『ワシントン・ポスト』が“ニクソン再選委員会”の資金が「鉛管工」の民主党本部夜盗工作に使われていたことを報じたが、ニクソンの人気は根強く11月の選挙で再選が決まった。だがニクソンじきじきにCIAとFBIの亀裂を抗争を煽ったことが、その後に命取りとなっていく。

 73年3月、グレイFBI長官は議会の司法委員会で、ウォーターゲイト事件発覚直後にホワイトハウスの法律顧問(ジョン・ディーン)と頻繁に会って捜査ファイルを提出していたことを証言。4月にはこのディーン法律顧問が、ダニエル・エルズバーグ氏のカルテを盗むために「鉛管工」グループが精神分析医オフィスに侵入したことを認めたが、ただちにニクソンは「国家安全保障上の脅威になる」として司法省にこの事件の捜査を中止するよう要請した。4月末には「鉛管工」活動に関与した大統領補佐官が一斉に辞め、ニクソンは取り巻き人事の緊急補修を余儀なくされた。5月にはFBIが、69年から政府が国民の電話を盗聴していたことを認め、議会・特別調査委員会の公聴会も始まって“疑惑解明”が国民的なメディア・イベントになった。同月22日、ニクソン大統領は盗聴工作も「鉛管工」グループの秘密活動も「ヒューストン計画」もすべて認める声明を出し「国家安全保障のために必要だった」と釈明した。

 公聴会が進むなかで前補佐官たちはホワイトハウス内の会話がすべて録音されていることを明かし、そのテープが重大な証拠になるとして議会はニクソンに提出を求めたが、これを頑固に拒否し続けたので、国民の間に「やはりニクソンは後ろめたいことをしている」という印象が定着していった。10月にはアグニュー副大統領が脱税・収賄・強要の罪に問われて副大統領を辞任し、第二次ニクソン政権の信頼は地に落ちた。12月にはテープ提出を拒んでいたニクソンが「速記録なら出す」と言い出したので、議会は態度を硬化させ、20件もの弾劾決議案が出された。

 74年になるとホワイトハウス内録音テープの提出をめぐる攻防がこの事件のもっぱらの争点となり、裁判所も巻き込むことになる。7月下旬に最高裁は全員一致で録音テープ提出の命令を出し、下院司法委員会は「ニクソンはテープ提出命令を拒否して司法妨害を行なった」という理由で弾劾決議案を可決した。下院本会議で8月19日に決議される予定だったが8月8日に突然ニクソンは大統領を辞任し、アグニューの後任として副大統領になってまだ日が浅いジェラルド・フォードが大統領に昇格した。1ヵ月後の9月8日、フォード大統領はニクソンに全面的な恩赦を与えた。

 

●5.その後の展開と諜報機関への引き締め

 ニクソン政権中枢のスパイ組織を用いた権力の濫用は、米国政府機構の内部崩壊を招きかねない未曾有の危機をもたらした。これをきっかけに70年代の後半は、諜報機関の権力濫用の実態解明と、制度的な引き締めが一挙にすすんだ。

 75年1月4日、フォード大統領は「大統領命令11828号」を出してCIA国内活動監督委員会を創設した。これはネルソン・ロックフェラー副大統領を委員長とし、同年6月にCIAの国内活動についての調査報告書を大統領に提出した。

 連邦議会では、1月下旬に上院がフランク・チャーチを委員長とする「諜報活動に関する政府の作戦行動を調査する特別委員会」(チャーチ委員会)が発足し、15ヵ月かけて米国の諜報活動の実態を徹底的に調査し76年4月下旬に最終報告書を公表した。下院でも2月中旬に諜報問題特別委員会(初代委員長はルシアン・ネッヂだがその後のオーティス・パイク委員長の名で知られている)を設置した。この「パイク委員会」は翌76年1月下旬に最終報告書を公表することになっていたが、その2日前の票決で公表はとり止めになった。76年5月には上院が諜報問題特別委員会を常設化し、ダニエル・イノウエ委員長の下で諜報機関の監察が行なわれることになる。翌77年には下院にも、もっぱらCIAの活動を監視する諜報問題特別委員会が設置され、他の各種委員会も各種の諜報機関を監視していくという体制が出来た。

 76年11月の選挙で大統領になったジミー・カーターは78年1月に「大統領命令12036号」を出し米国の諜報体制を再編してその活動を規定する明確な指針を出した。こうして米国の諜報機関は組織と活動の輪郭が明確化され、議会が監視する体制もできた。その後、80年代のレーガン共和党政権の時代に、「諜報共同体(Intelligence Community)」という枠組みが明確化され、タテマエ上は諜報機関の活動がきちんと行政の枠組みに位置づけられるようになった。ただし、個々の諜報機関の存在や機能については相変わらず過剰な秘密主義に覆われているし、レーガン政権は諜報活動や不正規戦争を活発に押し進めて冷戦対立を煽ったので、諜報機関の活動はますます錯綜し、議会や国民による監視は事実上不可能になった。

 

●NZの政党政治について【353頁・上段・1行目】

 ニュージーランドは伝統的に国民党と労働党による二大政党制が続いてきた。だが1994年ごろから多党化が進み、その結果、“小選挙区比例代表併用制”(Mixed Member Proportional Representation=MMP)が採用されることになった。この新制度を導入した最初の総選挙は、ジェイムズ・ボウルジャー国民党政権下の96年10月12日に行なわれた。この選挙では最大与党・国民党も最大野党・労働党も、定員の過半数を獲ることができず、単独では政権に就けない状況になった。結局、決選投票で国民党が労働党を破り、国民党から分派して生まれた人種差別的傾向の強いニュージーランド・ファースト党との連立を組んで政権を立てた。その後、この連立保守政権は行きすぎた民営化を実行してニュージーランドの公共サービス部門を外国企業の独壇場にしてしまったため国民の反発を買い、99年11月の総選挙では国民党が大敗を喫することになる。その結果、こんどはヘレン・クラーク党首の労働党が、同党から分派して生まれたアライアンス党と連立を組んでクラーク政権を立てた。
 参考までに、本書で論じてきた1970年代後半から90年代後半までのニュージーランドの歴代首相は、以下のとおりである――44代:ロバート・D・マルドゥーン(国民党、75.12.12〜84.7.26)45代:デイヴィッド・R・ロンギ(労働党、84.7.26〜89.8.8)46代:ジェフリー・W・R・パーマー(労働党、89.8.8〜90.9.4)47代:マイケル・K・ムーア(労働党、90.9.4〜11.2)48代:ジェイムズ・B・ボウルジャー(国民党、90.11.2〜97.12.8)49代:ジェニファー・M・シプリー(国民党、97.12.8〜99.12.5)50代:ヘレン・クラーク(労働党、99.11.27〜)[2003年3月現在]。

 

第14章

●冷戦下のアメリカ国務長官J・F・ダレスについて【376頁・下段・4行目】

 ジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)は1888年にワシントンDCに長老教会の牧師の子として生まれた。プリンストン大学在学中の1907年に、国務長官だった祖父に同行して第二回ハーグ平和会議を間近で見る機会を得て、国際政治に関心を持ちパリ大学やジョージワシントン大学で法学を修めた。大学卒業後にニューヨークで弁護士を開業。第一次大戦中には総力戦体制の遂行のために設置された戦時産業調整委員会で働き、戦後はヴェルサイユ講和会議に携わった。帰国後は弁護士に戻り、主に国際的な法律紛争の解決に携わった。

 三七年に共和党政治家トマス・デューイと付き合いようになり政界に関わるようになる。デューイはニューヨーク州知事(43〜55年)を務め、44年と48年に大統領選に立ったがいずれも負けている。ダレス自身は共和党員として超党派的な外交政策活動に関わり、1945年にはサンフランシスコで開いた国連創設会議の米国代表主席顧問を務めた。しかし第二次大戦が終わると各種の国際会議でソ連が非妥協的な態度をあらわにしたのに幻滅し、たちまち反共主義者に変じた。49年にニューヨーク選出のロバート・ワグナー上院議員が辞任し、デューイ知事がダレスを後任に推薦したが、この選挙では落選している。しかし50年にトルーマン大統領から対日講和条約の策定を命じられ、51年9月8日、同条約は米日安保条約とともに締結に至った。この時期は国内ではマッカーシー旋風(赤狩り)が荒れ狂い、アジアでは「国連軍」を僭称する多国籍軍の朝鮮半島における戦争が膠着状態に陥っていた。こうしたなかでダレスは民主党トルーマン政権の対外政策を臆病で一貫性がないと攻撃し、その強硬姿勢が買われてアイゼンハワー共和党政権が発足すると国務長官(53〜59年)に抜擢された。

 「冷戦(cold war)」という言葉は、1947年7月に米国国務省のソ連専門家ジョージ・ケナンが『フォーリン・アフェアズ』に匿名で発表した(匿名ゆえに「X論文」と呼ばれている)『ソヴィエト対外行動の源泉』と題する“ソ連封じ込め”政策提言に対して、ジャーナリストのウォルター・リップマンがこの言葉を持ち出して反論したのが最初なのだと、広く伝えられている。しかし実は第二次大戦終結直後の1945年10月19日に英国労働党系の『トリビューン』紙に寄せた「あなたと原子爆弾」という時事論評のなかで、「冷戦」という言葉を最初に用いて"おぞましき新世界"の到来を警告していた。つまりオーウェルは、原爆という超強力な兵器をまず米国、ついでソ連、そしていずれは中国・東アジア連合という三極が独占することで、それぞれが相互の核使用を行なわない秘密協定を結びながら、いずれも自分たちの支配域内で新たな形態の封建的な奴隷帝国を築き、「相対峙する国家連合との恒久的な"冷戦"状態」を未来永劫に維持していく恐れがあると予言したのである。三年後に彼はこの現状認識を『1984』のいうディストピア小説にまとめた。しかしさらに「冷戦」という言葉の起源をたどると、14世紀初頭のスペイン(カスティーリャ)の作家ドン・フアン・マヌエル(Don Juan Manuel)が最初にこの言葉を使ったと言われている。(マヌエル自身は「なまぬるい戦争(la guera tivia)」という表現を用いたようだが、19世紀の編集者がこれを「冷たい戦争(la guerra fria)」と改変したと考えられている。) マヌエルは、きわめて強力で熱い戦いは(死であれ平和であれ)確固とした"結果"をもたらすが、「なまぬるい戦争」は戦うに値する資格が十分なものとは言えず、いずれの陣営にも勝利や誉れをもたらすことなく、結局のところ平和をもたらす戦いではない、と考えた。(Fourteen Notes on the Very Concept of the Cold War, Anders Stephanson, http://www.h-net.msu.edu/~diplo/stephanson.html

 ダレスは国務長官として“外交戦”の分野で「冷戦」体制を構築した人物だった。ソ連および中国の周辺にある国々と個別に軍事同盟を結ぶとともに、NATOやANZUSに続いて作りだした「東南アジア条約機構」(SEATO、54年発足・77年解消) のように反共主義的な地域集団安保体制を張りめぐらし、冷戦体制を恒久的な“世界構造”として固定させた。そして大規模な核兵器軍拡を行ない、“共産主義のドミノ倒し的な拡大”をくい止めるためにヴェトナムを“共産主義と戦うための戦場”にしたのである。しかしヴェトナムの地域紛争はそもそもイデオロギー的なものではなく、フランス植民地主義からの独立を求める民族自決運動だった。ダレスはこうした現地事情にもとづく歴史的背景を理解することができず、反共妄想に駆られて対外軍事干渉を進めた結果、米国の国益を損ねることになったのである。

 

●米国がインドシナ地域で展開した戦争について【379頁・下段・8行目】

 「ヴェトナム戦争」とは、第二次大戦後の数十年間にわたり東南アジアの“インドシナ”地域で、ヴェトナムだけでなくカンボジア、ラオスという三つの国を巻き込んで、当初はフランス、ついで米国が行なった大規模な侵略戦争である。正確にいえば「インドシナ戦争」と呼ぶべき“地域紛争”だが、この地域紛争はインドシナで内発的に起きたものではなく、もっぱら西洋の植民地主義国が“帝国主義的”野心に駆られて持ち込んだものだった。(ヴェトナムは、フランスによる植民地時代に表記体系のローマ字化を押しつけられたが、本来は漢字文化圏である。国名の由来は、ヴェトナム最後の王朝となったグェン【阮】朝の初代ザーロン【嘉隆】帝が国号に定めた「越南」であり、これは“中国から遙かに南の土地”という意味だ。そういうわけでローマ字表記も「Viet Nam」なのであるが、ここでは日本語音訳も「ベトナム」でなく現地音により忠実な「ヴェトナム」を用いる。)

 いわゆる「ヴェトナム戦争」は、フランス植民地支配からの解放闘争である「第一次インドシナ戦争」(1946〜54年)と、米国がイデオロギー的理由で「アジアの共産主義化阻止」を唱えながら軍事介入した「第二次インドシナ戦争」(54〜75年)として30年近くも続いたのである。

●●【1】ヴェトナム戦争前史(1862〜1946年)

 「ルイ」ナポレオン三世治世下の1862年、フランスはインドシナに出兵し、サイゴン【西貢】を軍事占領した。83年にはヴェトナムを保護領にして、87年にはラオスやカンボジアを含む“インドシナ連邦”(仏領インドシナ)を樹立した。この“連邦”はハノイ【河内】に総督府を置き、ヴェトナムを南部(コーチシナ【交趾支那】)、中部(アンナン【安南】)、北部(トンキン【東京】)の三つに分割統治して現地民の団結を阻止し、伝統文化も否定した。カトリックの定着を企てて仏教を排撃し、漢字表記を全廃してフランス人宣教師が考案した“クォックグー【国語】”というローマ字表記を導入した。フランス統治に抵抗するものは軍が容赦なく虐殺した。

 現地民の上流階級は子弟をフランスに留学させたが、やがて愛国心を胸に秘めたヴェトナム人のエリート青年たちがフランスで独立運動に身を挺するようになる。ホーチミン【胡志明】もそうした青年の一人だった。彼は1890年に植民地支配を嫌う官吏の息子として生まれ、若い頃に欧米に渡って船員や調理師の経験を積んだのち、1917年にパリに渡って“グェン・アイコック【阮愛国】”と名乗ってヴェトナム独立運動に参加した。21年にはヴェトナム人としては初のフランス共産党員になり独立運動を支持する新聞のカメラマン助手をしていた。23年にはモスクワに渡り、その後は中国各地などで独立運動の指導経験を積んだ。

 こうしてホーチミンは共産主義者の力を借りてヴェトナムにも独立運動の足場を築いた。1930年にはヴェトナム共産党が結成されたが、フランスはこれに大弾圧をもって臨み、現地民のフランス支持をつなぎとめるためフランスに留学していた阮朝13代目のバオダイ【保大】を皇帝に据えた。だがこの皇帝はフランスびいきで圧政に加担するだけだったので、民衆の反感はつのるばかりだった。

 やがて第二次大戦が始まり、ナチスドイツがパリを占領した10日後(40年6月24日)にフランスはドイツに降伏した。そのわずか3日後、すでに中国で侵略戦争を行なっていた大日本帝国は、東南アジアの軍需物資がヴェトナム経由で中国に渡るのを阻止するため、シンドシナへの進駐をフランスに要求した。9月に北部インドシナは、フランスが行政支配を握るかたちで日本軍の進駐を認めた。翌41年に日本軍は南部インドシナにも進駐し、この年の12月に太平洋戦争が始まるや東南アジア全域を占領した。日本軍は兵站を軽視して戦線を拡大し、食糧などを現地調達するという方針をとった。主要穀物(コメ)がビルマ戦線や中国戦線ばかりか日本本土むけに大量に徴発されたので、ヴェトナムでは大量の餓死者が出た。戦争末期の45年には深刻な飢饉が起きたが、穀物の強制徴発が続いたので最終的には200万人が餓死したとされる。

 41年5月にホーチミンの指導のもと、ヴェトナム共産党が中心となって「越南独立同盟」(ヴェトナム・ドゥクラップ・ドンミン、略称ヴェトミン)が結成された。これは民族解放をめざすヴェトナム人の統一戦線組織だった。米国も日本軍進駐に反対して民族独立運動を支援し始めた。ヴェトミンは抗日・抗仏運動を進めたが、フランスや日本が大飢饉を放置しながら農民から徴発し貯蔵していたコメを奪取して農民たちに分け与えたので、広く国民の支持を得るようになった。

 太平洋戦争末期の45年3月には日本軍がフランス軍を制圧して捕虜にし、この政権横取りを正当化するためにバオダイ帝を擁立した。しかし6月に米国はインドシナの主権はフランスにあると表明した。

 45年8月15日、日本軍は連合軍に降伏した。(降伏文書調印により日本が国家として「終戦」を迎えたのは9月2日である。) 19日にはヴェトミンが一斉蜂起し、この"八月革命"によってバオダイ帝は退位した。9月2日にホーチミンがハノイで「ヴェトナム民主共和国」の建国を宣言した。

 

●●第一次インドシナ戦争(1946〜54年)

 「ヴェトナム民主共和国」建国宣言をフランスと米英がすなおに受け入れていれば、1975年まで続く戦争は起こらずにすんだであろう。ところが9月のうちにさっそくフランス軍とイギリス軍がヴェトナムに乗り込んできて、翌46年3月にはフランス軍がハノイを再び占領した。ヴェトナム軍(ヴェトミン勢力)はハノイから撤退し、これによってフランス植民地が復活したのである。46年12月にフランス軍とヴェトナム軍が大規模な衝突があり、ここから第一次インドシナ戦争が始まった。

 この時期には米英で「冷戦」概念の発明と宣伝が始まり、米ソ二大陣営の対立が激化するなかでヴェトナム国家のゆくえが大国の思惑に翻弄されることとなった。49年6月にフランスは(45年8月革命で退位していた)バオダイ帝を元首に据えて、仏領ヴェトナム国を樹立し、同年にかたちばかりの「独立」をとげたラオス、カンボジアと共に「フランス連合」に編入した。米国はこの植民地主義の復活を歓迎した。その直後の49年10月には中華人民共和国が誕生し、米国を中心とした国々によるアジアでの冷戦攻勢は格段に強まった。翌50年2月にフランス政府は「米国に軍事援助を求めた」と発表、5月には米国のアチソン国務長官がインドシナへ軍事経済援助を行なう発表し、同月のうちに経済援助を開始した。6月には朝鮮戦争が勃発し、北東アジアで"冷戦"から局地的な“熱戦”に発展した。7月に米国の軍事援助顧問団がサイゴンに派遣され、12月には米仏およびインドシナ三国が、相互防衛援助協定を結んだ。

 ヴェトナムでは宗主国フランスが米国の支援を受けながら圧倒的な軍事力で支配をなし遂げようとしたが、ヴェトミン勢力はソ連と中国の援助を受けながら農民による「人民戦争」型のゲリラ戦でねばり強い反撃をつづけ、54年早々にフランス軍の主要軍事拠点ディエンビェンフー【奠邊府】を包囲して甚大な打撃を与えたので、フランスは5月7日に降伏した。被植民地国が宗主国に真っ正面から戦いを挑み、史上初めて勝利を得たのである。かくして5月上旬にジュネーヴで講和会議が開かれ、戦争当事国のフランスとヴェトナム民主共和国だけでなく、米英・中ソと仏領ヴェトナム国まで参加して激しい交渉が進められた。結局、国連未加盟だった中華人民共和国の周恩来首相が有能な仲介役となり、7月20日に「インドシナ和平協定」が調印された。しかしこの交渉がまとまる直前の54年7月7日に米国は単独でそれまでの仏領ヴェトナム国(サイゴン政権)を、バオダイ帝を廃止してゴ・ディンヂェム【呉庭艷】を「大統領」に据えた「ヴェトナム共和国」という傀儡国家を打ち立てた。

 この和平協定によって、つぎのような合意が行なわれるはずだった――(1)双方が停戦に合意し北緯17度を“臨時の軍事境界線”として北側は「ヴェトナム民主共和国」、南側は「ヴェトナム共和国」の領土とする、(2)インドシナ三国の独立と主権を認める、(3)南北ヴェトナムの統一を実現するため1956年までに民主的な総選挙を実施する。

 ところが米国とヴェトナム共和国(サイゴン政権)は、和平協定の調印を拒んだ。第二次大戦中にヴェトミンを支援し「民族自決」を尊重していたはずの米国が、単独で――朝鮮半島で「大韓民国」を作ったのと類似の手口で――傀儡国家を作ったのは、米国国務省のダレス長官を中心とする反共勢力が「ドミノ理論」という一種の被害妄想に駆られていたからだ。米国政府の認識は「ホーチミンと民族独立運動はすべて共産主義者の陰謀である」というものだった。そこから引き出される推測はこうだ――「この和平協定にもとづいて民主選挙を実施すればホーチミン勢力が国民の支持を得てヴェトナムが共産主義化するだろうし、そうした動きがヴェトナムから東アジア全域に波及していってやがては"反共の防波堤"日本まで共産主義化してしまうかもしれない。そういう可能性を封じるには、なんとしてもヴェトナムの共産主義勢力を潰す必要がある。つまりアジアを“赤い伝染病”の蔓延から防ぐには、ヴェトナムに軍事介入しても共産主義勢力を絶滅する必要がある」。米国は、政府と軍部を蝕んでいたこういう妄想に駆られて、みずからヴェトナムに軍事介入していくことになった。

 

●●第二次インドシナ戦争(1954〜75年)

 1954年7月、米国とその傀儡であるヴェトナム共和国(南ヴェトナム)はジュネーヴ和平協定の調印を拒んだ。翌55年2月には米国軍事援助顧問団が南ヴェトナム軍の訓練を開始し、十分すぎる資金と武器を傀儡軍に注入した。米国が1956〜60年に南ヴェトナムに投入した経済軍事援助は16億ドル以上であり、この国の政府予算の7割に達していた。そしてゴ・ディンヂェム政権は、フランスが植民地時代に持ち込んだカトリックを優遇して仏教徒やヴェトミンその他の反体制勢力を厳しく弾圧し、事実上の“新たな宗主国”に仕えた。57年2月には大統領暗殺未遂事件も起きた。この政権の下で1960年までに80万人が投獄され、拷問で9万人が殺され、19万人が身体障害者になった。残虐な独裁体制の下で、南ヴェトナムには汚職や縁故政治が蔓延した。こうしたなかで59年1月、北ヴェトナム労働党は、南ヴェトナムを武力によって解放する方針を決めた。ヴェトミン勢力による武力闘争が開始され、翌60年1月には南ヴェトナム政府軍への攻撃も始まる。12月には「南ヴェトナム解放民族戦線」が結成された。

 南ヴェトナム解放勢力の戦法は一貫してゲリラ戦である。一方、これを殲滅しようとした米軍のほうは、1960〜65年には対ゲリラ特殊戦争が中心であったが、劣勢が続いて泥沼状態に陥り、形勢挽回のために65〜68年にはインドシナ全域におよぶ大規模かつ猛烈な局地戦へと戦争をエスカレートさせた。

 61年1月にケネディが米国大統領に就くや、対ゲリラ戦を強化すべく「軍事顧問団」の名目で米軍を大量に派遣し、60年5月には300人余りの派遣人数だった兵員が、64年12月には18万1000人に増えていた。南ヴェトナム軍も25万人体制がこの4年ほどに50万人に倍増した。対ゲリラ戦専用のエリート特殊部隊「グリーンベレー」も6500人が現地に投入された。「従来の村落はゲリラ戦の拠点になっている」という認識から、強制収容所同様の「戦略村」を各地に建設し、農民をそこに強制移住させて既存の村々を焼き払った。これは農民の憎悪と反逆を生み、逆効果となって失敗し、それどころかゲリラ戦の拠点になってしまった。さらにゲリラがひそむ山林をなくすために大規模な除草剤で植物生態系の絶滅を行なうという「枯葉作戦」を実施したが、除草剤には大量のダイオキシンが含まれていたため、住民ばかりか米兵にも大量の被害者を生み出すこととなった。63年11月1日に米国黙認の下でクーデタが勃発し、ゴ・ディンヂェムは暗殺された。ケネディ大統領も同月22日に暗殺されたわけだが、彼の政権下で米国は年間10億ドル以上の軍事援助を南ヴェトナムに注ぐようになっていた。だがその国の農村の四割は、解放勢力が掌握していた。つまりケネディ政権の戦争は失敗だった。

 ところが後任のジョンソン大統領は、講和でなく戦争拡大を選んだ。南ヴェトナムでは64年1月末に再び軍事クーデタが起き、政権の不安定な状態が続いた。米国はその間、目立った動きを見せなかったが、同年8月上旬にトンキン湾海上で米軍は挑発を行なって北ヴェトナムの攻撃を誘い出し、そのうえありもしない攻撃被害をデッチ上げて、これ(トンキン湾事変)を口実に北ヴェトナムへの「報復」爆撃を公然と開始した。こうして米軍は65年2月から北ヴェトナムへの大規模空爆に着手し、65〜73年に米軍が南北ヴェトナムに用いた爆弾はおよそ700万トン(北ヴェトナムにはこのうち64万トン)、爆撃に用いた砲弾は1426万トンに達した。ケネディ政権当時は「軍事顧問団」という看板を掲げていたが、ジョンソン政権になると米軍が公然と地上戦に登場し、64年12月には18万1000人だった米軍兵員は、68年8月のピーク時には54万3000人に達した。米国が投入する戦費も膨らむ一方で、1965年には米軍戦費10億ドルと南ヴェトナム軍事援助でさらに10億ドル程度だったものが、66年に112億ドルと急伸し、ピーク時の69年には288億ドル、“米国の戦争”として戦った60〜75年の総額は1800〜2000億ドルにも達するものとなった(当時の貨幣換算は1ドルが360円である)

 のちに暴露されたことだが、この時期に南ヴェトナム援助軍司令官だったウェストモーランド将軍は、ひどく楽観的な戦況見通しを報告して米国政府中枢を騙していた。ジョンソン大統領は「米軍が勝ちつつある」と宣伝に努めたが戦況が泥沼状態だということは戦場から伝えられる報道を通じて国民に知れ渡っていた。その結果、米国内で社会不安が高まり、反戦運動と公民権運動で革命前夜のような状況になった。またヴェトナムの最前線でも反軍運動や兵士たちのサボタージュによって軍隊そのものが内部崩壊しかねない状況になりつつあった。

 こうした米国の危機にとどめを刺したのは、68年1月末の南ヴェトナム各地で一斉に起きた「旧正月(テト)攻勢」である。首都サイゴンでは、解放勢力が大統領官邸や米国大使館を占拠した。絶対に落ちるはずがないと信じられていた米国大使館が簡単に乗っ取られたことで、アメリカ国民はジョンソン政権の軍事的・政治的無能と、常日頃の政府の宣伝が気休めのウソだったことを知ったのである。これを契機に反戦世論が爆発的に高まり、ジョンソン大統領は同年の選挙に立つことを辞退したほどである。(つまり大統領として国民の信任を得ることは一度もなくホワイトハウスを去ったのだった。) こうして米国は、ようやく「名誉ある撤退」をめざすことになる。同年5月半ばにパリで講和会議が開始された。

 69年1月、共和党のニクソンが大統領に就いたが、彼の戦争方針は「ヴェトナム戦争のヴェトナム化」だった。つまり米国は撤退し、ヴェトナム人自身に決着をつけさせるという選択だった。米国は、和平交渉で優位に立ちできる限りの「名誉ある撤退」を実現するために、ますます爆撃をエスカレートさせた。しかも戦域をカンボジアやラオスにまで拡大させた。こうして必要のない戦争被害者をむやみに増やしながら、和平交渉が断続的に続けられ、73年1月23日にハノイおよびサイゴンのそれぞれヴェトナム国家政府と、69年6月にうまれた南ヴェトナム臨時革命政府、そして米国の四者により、ようやくパリ和平協定が調印された。この調印を終えると米軍はすぐに撤退を開始し、同年3月29日の撤退完了をもって「米国によるヴェトナム戦争」は終わった。結局、米国は2000億ドルの巨費を投じて自国民5万8000人とヴェトナム国民300万人の生命を奪ったにすぎなかったのである。

 米国が撤退しても「ヴェトナム化」されたヴェトナム戦争はしばらく続いた。しかし75年4月末に解放勢力がサイゴンの解放をなし遂げ、米国の傀儡にすぎなかった南ヴェトナム政府は降伏によって消え失せ、ようやく南北ヴェトナムの再統一が実現して、ヴェトナム社会主義共和国として現在に至っている。